パーキンソン病闘病記「朝焼け夕富士」著者 たがみさなえホームページ
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続・朝焼け夕富士

『続々 朝焼け夕富士』
 パーキンソン病定位脳手術(脳深部刺激療法DBS) DBS手術後6.5年目の電池交換

 手術を勧めてくださったとき、たしか、Y市の先生は「7~8年はもつんじゃないかな。新しい治療法ができるまでのつなぎだと思って受けてみたら」と、おっしゃったはず。手術をして、もう7年以上の月日が過ぎました。その後の綾子さん、一体どうしているのでしょうか。北陸のK市にUターンした綾子さんを訪ねてみましょう。

 いました。いました。家の前の小道です。まだ、しぶとく生きているようですね。一体どこへ行くのでしょう。おやっ、右に曲がって郵便局へ入っていきましたよ。杖は突いているけれど、薬が効いているのか、結構しっかり足が地に着いているようですね。

34年間のY市での生活に別れを告げて、故郷のK市にUターンしてきた大輔さんと綾子さん。前回の報告から2年半。二人はどんな生活をしてきたのでしょう。

1 増えたDBS(脳深部刺激療法)

 近年、DBS手術の存在がマスコミにも取り上げられ、かなり多くの人に知られるようになってきました。4年半前、綾子さんがK市にUターンしてきた時、北陸のこの百万人余りの県では、DBSを受けた患者は5人しかいませんでした。全員、京大病院で手術を受けていたのです。今では、このK市でも、国立医療センターでDBSの手術が始まりました。かなりのハイペースで、手術の実績を上げているようです。でも、手術のあとのケア(調整)はどうなっているのでしょうか。未だに調整のために、半年に一度東京の病院に通っている綾子さんには気になるところです。

パーキンソン病は進行性の病気です。DBS手術で、症状を改善することはできても、完治することはできませんし、病気の進行を止めることもできません。そこで、病気の進行に合わせて、脳内に埋め込んだ電極を調整する必要があるのです。綾子さんの県でも、調整をして下さる先生が3人いらっしゃるそうです。でも、調整は慣れていないと難しいし、時間もかかるので、あまり診て下さらないと聞いています。綾子さんの手術をしてくれた東京の病院では、月に1度、神経内科の辻先生が調整をして下さいます。以前はボランティアでしたが、今はどうなのでしょう。1日に30人前後の患者さんの調整をなさいます。調整は暗くなるまで続きます。2時頃に診察室から顔を出された辻先生、ニコッと一礼、「お待たせして済みません。パンを1個食べたいので、10分ほどお休みを下さい。」いつもこんな調子です。本当に頭が下がります。

以前、綾子さんが『朝焼け夕富士』をネットで公開したとき、少しでも読んでいただきたい一心で、各県の「友の会」にお葉書を出したことがあります.これは、そのときに頂いたお返事のひとつです。
「私も同じ手術を受けましたが、1年半で完全に元に戻ってしまいました。」
東北の方でしたが、調整はどうしていたのでしょうか。当時の綾子さんは調整の必要性を今ほどには実感していなかったので、それっきりになってしまったことを後悔しています。
また、綾子さん、DBS患者の体験談を収録した冊子『自由への扉』の編集者に連絡を取ったこともあります。そのとき知り合った岡野さん、たまたまK市のお医者さんで、いろいろ教えて頂いたことは、続編に書いたとおりです。綾子さん、その岡野さんにカラオケを勧められました。
「大きな声を出すと、病気にいいのよ。歌に合わせて、体操もするの。教えてあげるわ。ね、カラオケに行きましょう。」
実は綾子さん、今の歌は全く知りません。まともに歌えるのは童謡か小学校唱歌ぐらい。勿論、カラオケなんて行ったこともありません。でも、是非にと誘われると、断りきれない綾子さん。タクシーで指定の場所へ行くと、集まってきたのは「友の会」の中心メンバーばかり。どうやら岡野さん、高齢化が進む「友の会」で、綾子さんに広報の仕事をさせようと目論んでいるようです。それはそうとして、震えが止まらなかったり、動きがぎこちなかったりするこのメンバー、いったんマイクを握ると、朗々と情感たっぷりに歌い続けるのです。綾子さんには、衝撃の一日でした。
中に一人、綾子さんと同年輩の可愛い女性。歌にあわせて踊るステップも軽やかで、とてもパーキンソンとは思えません。聞けば、京大病院でDBSを受けたとか。その彼女、1年も経つと、どうも具合が悪いと言って綾子さんに電話をかけてきました。彼女、K市の先生に調整をお願いしたそうです。
「あんたなんか良いほうだよ。」
先生、相手にもしてくれない、と言うのです。綾子さんには、京大での調整を勧めることしかできません。でも、彼女は一人暮らしです。
「京大なら、自分の病院で手術した患者だもの。調整してくれるわ。でも、一人じゃ無理でしょ?」

結局、娘さんが仕事を休んで連れて行ってくれたようです。でも、綾子さん自身、病気が進んで東京へ行けなくなったときの事を考えると、地方の受け入れ体制のお粗末さに、寒々としてしまうのです。

2 ドーナツの輪の中で

 故郷に戻って4年半。バブル崩壊後の不況が続く中で、夫と二人の生活は穏やかに過ぎていきます。穏やかとは言っても、これまで横浜にいたときとは違って、近所付き合い、親戚付き合いは手を抜けません。慶弔費はバカにならないのです。

ドーナツ化現象の典型のような綾子さんの町は、空き地と駐車場ばかりでガランとしています。それでも夏休みには、朝の6時半になると、カランカランと鐘が鳴って、近くの空き地からラジオ体操の音が聞こえます。あるとき、朝早くに水遣りをしようと外へ出た綾子さん。そこで綾子さんが見たものは・・・。音楽に合わせて身体を曲げ伸ばしするお年寄りの姿。子供のいないラジオ体操、それは一種異様な光景でした。体操が終わると、それぞれがポケットからポリ袋を引っ張り出して、ゴミを拾いながら家路につくのでした。

若い者がいなければ、年寄りがやれば良いじゃないか。年寄りパワーは見事なものです。何しろ、この町内では未だに夜回りをやっているのです。それでも、以前は夜の10時に回っていたのですが、お年寄りは寝るのが早いですからね。10時が9時、9時が8時になって、最近は7時に、もう拍子木の音が聞こえることもあります。高齢化で回る人がいなくなって、1ヶ月もしないうちに次の当番が回ってきます。綾子さんがごみ収集後のお掃除当番を免除してもらっているので、夫の大輔さんは夜回り当番をできるだけ5晩は続けるようにしています。夜回りなんて無理に続けなくても、と思う綾子さんですが、新入りには何も言えません。いい年をして、町内会長も三役もやったことがないのですから。

その町内会長を決める会議。例によって、誰も発言する人はいません。根競べです。この気まずい空気に耐えられず、声をあげたほうが負けです。司会は今年度の町内会長。端から順に事情を聞いていきます。大輔さんも、詫びを入れます。
「済みません。夜も日曜もない不規則な勤務なもので。引退したら必ずやりますから。」
男性陣の不甲斐なさにイライラした若い女性、堪りかねて手を挙げました。
「誰もなり手がいないのなら、私がやります。」
途端に声がかかります。
「黙んなさい。あんたの出る幕ではない。女性の町内会長なんて聞いたこともない。」
(そんなことを言うなら自分がやれば良いのにね)。女性陣からひそひそ声が挙がりますが、それ以上、言う人もいません。横浜暮らしに慣れた綾子さんには驚きでした。結局その日は決まらず、今年度の町内会長がそのまま押し付けられてしまいました。
男女差別は、田舎ではまだまだひどいものが残っています。祭りと同じように、儀式でもしっかりと、しきたりが守られているのです。綾子さんがW市の親戚のお葬式に行ったとき、女性だけまとめて先にお参りをさせられました。変なの、と思っていると、お葬式は男性のみで粛々と進められていくのです。当然のことのように、誰も文句を言う人はいません。綾子さんには思いもかけない、不思議な世界でした。

お葬式と言えば、昨年は激しい気温の変動が応えたのか、40軒ばかりのこの町内で、9ヶ月の間に5回ものお葬式がありました。5月には同日に2人も亡くなられて、町内中、黒尽くめで右へ左へと大忙しでした。お香典はともかく、お通夜やお葬式の度に駆り出されるのは、人前に出ると体が動かなくなる今の綾子さんには、かなりきついものがあるのです。

3 生と死の間で

 お葬式はご近所だけではありません。綾子さんの身内にも不幸は続きました。Uターンして1年目には大輔さんのW市の伯母さんが亡くなりました。お母さんの一番上のお姉さんです。早くに母親を失ったお母さんには、母親代わりの大切なお姉さんでした。お母さんの悲しみを思うと、大輔さんも綾子さんも、伯母さんの死を知らせることができません。「支店の伯母さんが、お母さんにって」。綾子さん、そっと形見のベストをお母さんの肩に掛けてあげました。
 2年目には、大輔さんが妹のようにしていた従妹のご主人が亡くなりました。大輔さんと同年輩のスポーツマンでした。
「お父さんが壊れていく!」
子供たちが悲鳴を上げるほどの速さで病気がどんどん進行していきました。そして、わずか3ヶ月の闘病生活で呆気なく逝ってしまったのです。
 綾子さんのお父さんが息を引き取ったのは、それからちょうど2週間後でした。医師に説得されて胃漏をしたばかりに、息をしているというだけの毎日。天井ばかり見つめながら、一体何を考えているのでしょう。お正月に綾子さんの息子の隆君がお見舞いに来たとき。かすかに声が漏れました。
「よっ、新聞記者!」
家族もびっくり。余程嬉しかったのでしょう。自分から声をかけるなんて、珍しいことです。
「そらね、じいちゃん、俺のこと、ちゃんとわかったよ。」 隆君、大喜びです。
 それでもお父さん、一向に良くなりません。しょっちゅう肺炎になって熱を出します。両手でギュッとベッドの端を摑まえて、放そうとしません。お父さん、何度も死にそうになって救急車のお世話になっているのですが、以前、死の渕から戻ってきたとき、こんなことを言っていたことがあります。
「池の周りをグルグル、グルグル歩いていたんだよ。落ちたら死んでしまう。落ちちゃいけない、落ちちゃいけないって、一生懸命木に摑まって歩くのだけど、歩いても歩いても池から離れられないんだ。」 この時もベッドの端を捕まえて、夢の中では必死で歩いていたのでしょう。
 そのうち綾子さんのお姉さん、とんでもないことを言い出しました。
「もう、うちへ連れて帰ろう。」
「無理よ。そんなことしたら、姉さんが倒れてしまうわ。」
「だって。可哀想よ。病院にいる限り、死にたくても死なせてくれないんだもの」。
お姉さん、泣いていました。
「大丈夫だよ。じいちゃん、俺が行けば元気になるよ。」
千葉の隆君は呑気なものです。でも、新聞記者はなかなか休みが取れません。やっと休みが取れたのは、お父さんが逝った2日後でした。
3年目には大輔さんの伯母さん(お父さんのお姉さん)が亡くなりました。亡くなる前日から施設に詰めていた上、葬儀委員長を頼まれて、大輔さんと綾子さん、4日間も詰めっきりでした。

 でも、不幸ばかりではありません。この間、隆君に待望の子供が生まれました。従妹の家でも長男に子供が生まれて、一緒に暮らすようになりました。次男は結婚して独立しました。大輔さんの妹の家でも長男が結婚しました。
 亡くなる命があれば、生まれてくる命もあります。綾子さん、お父さんを木に例えます。1本の木が伴侶を得て2本の木となり、種が落ちて3本の木が育って5本になりました。3本の若木はそれぞれに伴侶を得て、やがて7本の孫木が育って15本になりました。そのうち5本の孫木が伴侶を得て、8本のひ孫木が生まれて28本になりました。素晴らしいではありませんか、マルサの男。「人より1歩前に出たければ、人の3倍努力せよ」と、一生を走り続けた頑張り屋さん。他人は忘れても綾子さんは決してお父さんを忘れることはないでしょう。

4 親族の絆

 親木が倒れるのは悲しいことです。でも、若木がどんどん育っていくとき、古木が倒れるのは自然の摂理とも言えるのかもしれません。そして、いつもはバラバラに生活している若木たちが、一堂に会して倒れた親木を偲ぶのは、若木たちにとっても絆を深める良い機会になることでしょう。
 昨年の夏は、綾子さんの実家のお父さんの3回忌と大輔さんのお父さんの25回忌法要を行いました。特に、日によって認知症がひどくなる光子さん(大輔さんのお母さん)の様子を観ていると(少しでもはっきりしているうちにみんなに会わせてあげたい)、綾子さん、そんなことを考えるようになりました。実はこれは前年から考えていたのです。でも23回忌法要にしては1年遅すぎます。綾子さん、お寺さんに相談しました。
「真宗では23回忌はやらずに、25回忌をやるのですよ。だから、来年でちょうど良いですよ。」
 たまたま東京の病院で春の調整をしていただいたとき、辻先生が仰いました。
「もう電池が少なくなっていますから、9月の調整のときに入れ替えてしまいましょう。」
簡単な手術とは聞いていますが、何が起こらないとも限りません。それで綾子さん、少し早いけれど、8月中に、25回忌法要をやってしまおうと決めたのです。そのときはあの夏、あんなに猛暑日が続くなんて思いもしなかったのです。

 さあ、それからが大変です。まず、どうしても出席して欲しい親戚に都合を打診します。それから、お寺さんのご都合を伺います。法要の式場や料亭のパンフレットも集めて、比較検討します。
(脚の痛い人がいるから、椅子席が良いな。)
(光子お母さんのためにやるのだから、車椅子が使えなくては。)
(移動に時間を取られないように法要の式場とお斎の料亭が一緒の方がいいな。)
(口の肥えた人ばかりだから、お料理が良くなくては。)
こんなことを考えると、もうこれしかありません。K市郊外のホテル。地下に法要の式場があって、8階にはK市でも1・2を争う有名料亭が入っています。高台にあって見晴らしも良好。日本海に沈む夕陽は最高です。駅からは遠いけれど、ホテルのバスを出してくれると言うので決めました。
そうだ、光子さんが出席できるように、施設と交渉しなくては。以前、上の方からは、協力しますよ、という返事はもらってあったのですが、現場に確認するのを忘れていたのです。ところがこれがなかなかの難問でした。
「光子さんは車酔いがひどいのです。あのホテルでは遠すぎて無理だと思います。行きに30分、中で30分、帰りに30分として、光子さんの体力では持たないと思います。」
何かあっては責任問題ですから、現場が慎重になるのは当然かもしれません。現場のスタッフにそう言われては、無理は言えません。諦めていたら、後から電話があって、現場のチーフが休みを取って連れて行ってくれることになりました。感謝、感謝です。
それから往復はがきを買ってきて、案内状の作成です。始めたばかりのパソコンではこれがまた大変な作業です。ようやく発送が終わると後は返事待ち。ところがホテルバスの利用者が少ないので、バスをキャンセルしました。料理は客の大半が老人でW市の旦那衆だからと、数を減らして質の良いものを注文しました。引き出物は重い物、嵩張る物は、嫌。予算全部をセレクト・ギフトにしたかったのですが、それではあまり寂しいのでは、と言われて、小さなお饅頭を1箱付けました。お斎の会場と光子さんの部屋には、それぞれ思い出の品を飾りました。光子さんの心の準備も忘れません。
 当日、光子さん、皆の手を取って、泣いて喜んでくれました。彼女は法要だけで帰りましたが、お斎では皆さん、昔を懐かしんで話が盛り上がり、おかげで会は大成功。その後みんなで光子さんの施設を訪問。光子さんもすっかり昔の光子さんに戻って、お部屋で一緒に名残を惜しみました。
大仕事をやりおおせた満足感を抱いて、綾子さん、いよいよ手術に向かいます。

5 話が違うよ。

 入院は9月14日です。13日の午前中、大輔さん、大学で仕事の段取りを付けると、2人で午後の電車で大宮へ。越後湯沢の乗換えを入れても4時間はかかりません。新幹線の駅近に宿を取れば、ホテルに荷物を置いて、身軽に動けます。勿論上野や東京でもいいのだけれど、ホテルの値段が違いますから。以前は都内にホテルを取りましたが、都内の駅はホームが長い上に、乗り換えのたびに降りたり昇ったり。連絡通路も長いし、何しろ人が多くて流れが速い。綾子さんなんかが荷物を持って歩ける場所ではありません。
 その点、大宮で身軽になってしまえば、埼京線で武蔵浦和に出て、武蔵野線で西国分寺へ行くのも、とても楽。後は病院までタクシーで1(ワン)メーターです。それに、武蔵野線を使えば、千葉の息子の家にも埼玉の娘の家にも、簡単に行けるのです。綾子さんの手術の予定はわかりませんが、大輔さん、もし居続けるようになったら、孫たちにも会いたいと思っています。

 14日。10時の予定が、早く着きすぎて、看護師さんが迎えに来るまで、散々待たされました。これが今回の入院の待ち始め。待つのは最初からわかっていたのですが。
 お部屋は6A病棟の17号室。例に依って4人部屋です。いずれお世話になることでしょう。同室の方に挨拶をして、廊下側のベッドに納まります。とは言うものの、午前指定の荷物が届かないので、することがありません。担当看護師のサッちゃんから、初めて説明がありました。
「手術は16日の9時からです。ご家族の方は8時半までに来てください。明日の夕方担当医師の説明がありますので、ご家族もご一緒に聞いて下さい。」
「じゃあ、とにかく2晩ホテルを延長しておくよ」。そう言って、大輔さんは帰ってしまいました。
 昼食が済み、荷物が届いて整理をしていると、サッちゃんがやって来ました。
「今日は基礎的な検査だけです。」まず、身長・体重に、体温35.8、まあまあかな。血圧は上が143、ううむ、ちょっと高いぞ。それから、心電図・X線と、最後に採血・採尿です。
「わぁ。血を採るのって大嫌い。サッちゃん、上手に採ってね。」
「いつも難しいのですか。困ったなぁ。こっちまで緊張しますよ。」
なんてしゃべっている間に、サッちゃん、手際よく5本も採ってしまいました。
「サッちゃん、有り難う。あまり、痛まなかったわ。上手なのねぇ。」
 15日は一日フリーです。全身シャワー浴で明日の手術に備えます。お昼前に大輔さん、娘の愛ちゃんと一緒にやってきました。
「あらっ、パパ、今日、夕方よ。」「わかっているよ。でも、暇なんだもの。」
愛ちゃん、女の子ですねえ。細々といろんなものを持ってきましたよ。中でも目を引くのは20世紀梨です。愛ちゃん、綾子さんの好物を知っています。
「でも、折角だけれど、ナイフがないわ。」
「そう言うと思った」。バッグの底から取り出したのは、立派なナイフ。大輔さん、ニコニコ。
「さすが、愛子。気が利くな。」昼食がきたところで、2人揃って帰ります。
「じゃあ、2時にね」「ああ、和光市駅のヨウカ堂だな。」どうやら、ヨウカ堂のおもちゃ売り場で待ち合わせのようです。幼稚園の年長と年少の孫2人に、何か買ってあげる約束をさせられたのです。
「ジージは甘いんだから。あまり与えすぎるのは良くないわよ。」「わかってる。わかってるって。」

「ぎりぎりセーフだな。マグネット電圧が3.67Vしかないよ。あと2ヶ月でパンクするところだよ。えっ? 辻先生? 辻先生の調整なんて聞いていないよ。予定表、今回は電池の入れ替えだけだよ。」
辻先生のご指示で調整の予約を手術に変更してもらった綾子さん。先生の口調から、入院中に調整をしていただけるものと思い込んでいたのです。脳外科担当の石田先生の言葉にビックリです。

6 呆気ない手術

 手術そのものは、実に簡単に終わりました。勿論、局部麻酔です。一時、手術人の間違いや手術箇所の間違いが盛んに報道されたことがありました。それで、この病院でも入院時に名前やいろいろの情報の入ったバンドを腕につけて、何をするにも必ずバンドをコンピューターでチェックするようになりました。綾子さんも手術前に丁寧にチェックされました。
 「それでは始めます。」
石田先生の声にすぐに手術着の胸が開けられ念入りに消毒されました。綾子さん、目を合わせるのが嫌なので、この時から目を閉じてしまいました。胸に麻酔薬に浸したガーゼを置いたような感覚がありました。そのまま時間が過ぎていきます。(何をしているのかしら。早くしないと麻酔が切れてしまうのに)。綾子さんがイライラし始めた頃は、もう最後の縫合の最中でした。呆気ない手術でした。

 11時頃には手術室を出て、今度はナースセンターの横の12号室に移動です。テレビ台とロッカーはもう移動済みです。しばらく2人部屋を1人で使うことになります。女性部屋には絶対に入らない大輔さんも、ここではベッド際の椅子に腰掛けます。
「今日は朝も昼も絶食になっているけれど、食べたいものがあれば食べてもいいそうですよ。」
サッちゃんの言葉で、早速、大輔さんに愛子の梨を剥いてもらって、4分の1ずつ食べました。梨の甘い水分が綾子さんの乾いた喉を潤します。
「もう少し食べる?」「ううん。でも切っておいてくれたら、後で頂くわ。」
 残りの梨を一口大に切って、ナイフを洗うと、大輔さん、立ち上がって、握手をします。
「元気そうでよかったよ。じゃあ、俺、帰るよ。遅くなるから。」
「うん。有り難う。気をつけて。それから一人暮らし、頑張ってね。」 「それが、問題なんだなあ。」口で言うほど、深刻ではありません。K市の家の周りにはデパートもあれば市場もあります。歩いて10分の駅まで行けば何だって食べられるのですから。

 大輔さんが帰ってしまうと、さすがに疲れたのか、綾子さん、ウトウトとしかけました。
朦朧とした頭で時計を見ます。3時です。木曜日の3時。ふと気がつきました。辻先生、今、隣のB病院にいらっしゃるはずです。時間もよし。今なら電話が繋がるかも。今をはずすとチャンスがなくなります。綾子さん、テレフォンカードと住所録を引っ掴むと、ベッドを降りようとしました。途端に担当のサッちゃんが跳んで来て、綾子さんを押さえ込みます。
「どうしたんです?」
「だって、田舎から出てくるのって、大変なのよ。私、入院中に辻先生の調整をしていただけるものと思っていたのに。調整をしないんじゃ、意味ないじゃないの。あなた方、ちっとも先生に連絡して下さらないんだもの。自分で電話するしかないじゃない。今なら先生、つかまるわ。」
「ダメです。綾子さん、今手術をしてきたばかりなんですよ。今日はベッドから降りてはいけません。」
 叱られても、諦め切れない綾子さん。こちらは説得を諦めたサッちゃん、石田先生に電話をします。
「石田先生のお許しが出ましたよ。でも、これ1回だけですよ。まだ診察中だろうから、看護師なんかが電話したら叱られるんだけど、患者さんなら案外出てくれるかもって、石田先生が言ってたわ。」
綾子さん、大喜びです。点滴台に掴まって、サッちゃんに介助されながら中央の公衆電話へ。
「もしもし、私○○と申しますが、○○というわけで、辻先生のお側の看護師さんにお電話に出ていただきたいのですが。」受付で事情を話すと、辻先生の診察室に回してくれました。
「はい、お電話代わりました。」辻先生の担当の看護師さんです。

「すみません。K市の○○と申しますが、今A病院に入院しておりますと、辻先生にお伝えいただきたいのですが。」A病院は入院だけなので、ほとんどの先生はB病院の外来と掛け持ちなのです。

7 激務の果てに

 翌日もまだ点滴に繋がれっぱなしで、横になっていました。そのとき、廊下からニューと覗き込んだお顔。
「まあ、先生!」綾子さん、慌ててベッドの上で正座します。
「あ、そのままでいいのよ。」久し振りの辻先生、ニコニコなさって、お元気そう。
「お忙しいのに、勝手を申しまして。」
「遅くなってご免なさい。でも、元気そうね。エーと、私、来週の金曜までいないから、再来週にしましょう。いいですね。」
「有り難うございます。診てさえいただけるなら、何時まででもお待ちしますわ。」
辻先生、ニカッと笑って片手を上げると、もう姿が見えません。
 (夕べ電話をしてよかった。先生、チャンとわかっていらっしゃったのだわ。)ホッと一安心の綾子さん。でもだんだん不安になってきました。1対1のお約束、誰も見ていないのです。あまりに忙しすぎる先生だから、また、忘れるのではないのかしら。また? そうなんです。綾子さん、これまでにも散々すっぽかされてきたんです。と言うのも、綾子さんの体調が落ち着いていることもあって、このところ、調整してもほとんど変更しなくなっているのです。それで、普通3ヶ月に1度の調整を、K市に戻ってからは、半年に1度にしていただいているのです。
「半年後の予定なんて、まだわからないわよ。」辻先生、メモしておかれるのですが、忙しくてメモを忘れるのです。だから綾子さん、最近は1ヶ月前には予約係に確認の電話を入れるようにしています。実は今回も入院予約が入っていなかったので、予約を入れるのに一苦労した綾子さんでした。
 そこで、綾子さん、看護長さんにメモを書いて、サッちゃんから渡してもらいました。しばらくすると看護長さんがお部屋へいらっしゃいました。やはり、辻先生が来られたこともご存じなく、綾子さんも外科だけで、抜糸が終わったら退院するものと思っておられたようでした。
「わかりました。後の手続きはこちらでやりますから、心配しなくていいですよ。」
 看護長さんも辻先生をつかまえるのには、苦労しておられるご様子です。
「辻先生、お忙しいから。前からつかまえるの、大変だったのだけれど。でも前は部長さんだったから、事務的なお仕事もあって、病棟にも1日1度は顔を出して下さったのよ。だけど、もう退職なさったからねえ。」
「エエッ!辻先生、退職なさったのですか?」
「大丈夫。ズーッとここにいらっしゃいますよ。こんなに全国から、辻先生、辻先生って、患者さんが集まってくるのに、放り出して引退なさるような方ではありませんよ。」
 「私、郷里へ行って、改めて辻先生の有り難みがわかったんです。だから、是非、先生にお礼を言いたくて。それから、もう一人。私、三国先生にもお礼を言わなくっちゃ。」
看護長さん、ちょっと口籠もります。
「三国先生ね、亡くなられたのよ。」
「エエッ!!」またまた、綾子さん、声になりません。ただただ驚くばかりです。
「去年の暮ね。三国先生、院長におなりだったのだけれど、院長室で執務机の椅子に腰掛けたまま、亡くなってらしたの。」
「まあ。余程お忙しかったのですねえ。あの先生、部長回診の時に、私が読んでいた本を手に取って『いいなあ、俺もこんなこと、やりたかったんだよ。暇になったら、やりたいなあ』って。それなのに、お忙しいままでお亡くなりになって。やりたいことも、やれなかったんですねえ。」  手術で三国先生に命を頂いたと思っている綾子さんです。命を下さった先生が、やりたいこともできずに、お忙しいままで亡くなられたというのに、命を頂いた自分は、したいことをして、未だにのうのうと生きている。悲しいやら、恥ずかしいやらで、鼻の辺りがツーンとしてくる綾子さんでした。

8 名月に祈る

 2人部屋を独占して、ゆっくり休めたのは3晩だけ。19日には、3日間入れっ放しだった点滴が終わって、後は朝晩の2回だけになりました。やっと点滴台から解放されたと思った綾子さん、午後には、元の4人部屋へ移されました。
「ただいま。」「お帰りなさい。手術、終わったのね。おめでとう。」「有り難う。」
いたのは隣の窓側のベッドのヒバリさんだけ。ヒバリさんは、頚椎の手術をしたとかで、首に大きなコルセットをはめて、いかにも苦し気です。彼女、小柄で眼鏡の奥の小さな目をクルクルさせながらおしゃべりをする、可愛いお母さん。とても高校生と小学生のお母さんとは思えません。甲子園名門校で優勝を目指して寄宿舎に住む息子さんは、とんでもない金喰い虫。寄宿費のほかにもユニフォーム代だの、遠征費だのと、お金がかかって仕様がない。と、愚痴ってみせるヒバリさんの目が誇らしげに輝いて見えます。息子さんはヒバリさん一家の夢であり、希望の星なのです。

 夕食間際に戻ってきたのは、病棟の人気者、インコのママになった、タンポポのようなお姉さん。いつもニコニコして、誰にでも気軽に声をかけてお友達にしてしまいます。彼女の持つホンワカとした空気が、周りの人の心を暖かく包んでいくのです。彼女の子供は、2羽のインコ。携帯に入っているのは、ピー君とキーちゃんの写真ばかり。子供たちのいたずら振りを話している時ばかりは、束の間、お姉さんも腰の痛みを忘れていられるようです。お姉さんは20年以上も腰痛に悩まされ、8年前に完全に車椅子になりました。今回何度かブロックをして痛みの箇所を特定して、最終的には腰椎の手術をすることになるのだそうです。

 綾子さんの大きな点滴は終りましたが、小さい点滴は1週間続きます。4日目ともなると、綾子さんの細い血管は、赤くポンポンに腫れて、痛くてなりません。でも連休だから主治医の石田先生はお休みです。看護師さんは採血はできても点滴はできないようです。それで、宿直をしていた研修医の玉葱先生に針を刺し替えて頂くことになりました。ところがこの玉葱さん、その太い手の不器用なこと。何度も刺し直して、やっと液が流れ出すまでの痛かったこと。針の周りは、内出血で真っ赤です。看護師さん、テープをギュッと巻いて、出血を止めてくれました。
「先生に言ったのだけれど『いいんだよ。あの人は。血管が細すぎるんだよ』だって。」
気の毒がる看護師さんの言葉に、さすがの綾子さんもカチン。(人のせいにするなんて、ひどいわ。)
「まあ。石田先生だって、サッチャンだって、1回で上手に入れてくれたわよ。」
 玉葱先生の針、痛い痛いと思っていたら、やはり1日で点滴液が流れなくなってしまいました。連休明けの21日、出勤された石田先生、看護師さんの報告を受けられます。
「化膿もしていないようだから、残りは止めておこう。」
この一言で、綾子さん、遂に辛く長い点滴をクリアー。この日は、糸だけ抜いて、下半身シャワーが許可されました。1日ずつ身軽になっていくのが嬉しくて、ついつい饒舌になる綾子さんです。ヒバリさん、タンポポさん、うるさくてご免なさいね。

 入院して10日近く、ほとんど歩いていなかった綾子さん、少しずつ歩き出しました。お部屋は西側なので、楽しみにしていた朝日を見ることはできません。位置的には富士山が見えるはずなのですが、まだ暑さのせいでしょうか、その姿は霞の向こうに隠れています。22日は中秋の名月です。
「10階のデイルームなら見えるわ。」前の入院は10階でしたから、綾子さん、よくわかっています。
「また、叱られるわよ。」手術前に黙って10階へ行って、サッチャンに叱られたばかりなのです。
夜中に目を覚ました綾子さん。ソオーッと廊下に出ると、西の窓から中天を見上げます。思ったとおりです。そこには、まん丸・お月さま。

9 出会いと別れ

 名月の翌日は秋分の日。一日中冷たい雨が降り続き、遠くに近くに雷が地響きを立てて走り回っているようでした。「暑さ寒さも~」のことわざどおり、長い間居座っていた夏の空気が追い払われ、一気に冬になったような寒さです。夏から急に冬になって、綾子さんを気遣ってくれたのでしょう。翌日大輔さんから送ってきたのは、綾子さんの冬の衣類。箪笥をひっかき回して探したのでしょう。古い物・サイズの合わない物・真冬の物など、とりどりでしたが、その気持ちだけで綾子さん、ほっかりと暖まっていくようでした。
 この日は、ヒバリさんが退院します。まだまだ辛いと言って、横になってばかりいたヒバリさん。横になるとすぐに軽いいびきが聞こえます。こんな調子で帰って大丈夫なのかしら。綾子さん、タンポポさんと一緒に顔を見合わせますが、看護師さんは建前上「病院はホテルではないのだから」と答えざるを得ないようです。
何でも、4月に都の条例が変わって、都立病院も独立採算制になったので、ベッドの回転率を上げようというのではないか、とは、病棟のもっぱらの噂です。週末には大半の患者が退院して、病棟はガラ―ンとしています。6階西側の病棟に残ったのは、綾子さんたち4人だけです。一方、病院の前は大渋滞。1本道の行き止まりで駐車場もほんの少しとあって、どんどんやってくるお迎えの車は、溜るばかりで身動きもできません。
 そんな中でタンポポさん、看護長さんに呼ばれました。来月手術予定のタンポポさん、手術前に一度退院するように言われたそうです。一人暮らしのタンポポさんは、車椅子を新しく作り変えたり、ヘルパーさんの派遣を申し込んだりと、手続きしなければいけないことが溜っていたので、それはそれでよかったようです。でも、彼女のお友達は全く形式的な退院です。月曜日に再入院してもいいから、土曜日に一度退院するように言われたとか。嫌だと言ったら、荷物は置いておいてもいいからとまで言われたとのことでした。

 その晩は、雨に加えて風も強くなってきました。台風です。直撃は免れたものの、南岸沖を通った台風は、かなりの被害をもたらしたようです。よう?そう、この頃の綾子さん、テレビも新聞もほとんど別世界。ただひたすら読書三昧です。その台風も午後には過ぎ去り、夕方には丹沢の稜線が、シルエットのようにくっきり浮かび上がりました。でも、まだまだ雲が多いとみえて、富士はまだ、綾子さんにその美しい姿を見せてはくれません。
 それは、日曜日の明け方でした。少しほっそりした月が、もう西の山の端にかかろうとしています。一際輝くひとつ星は、金星でしょうか。それから1時間。辺りが薄いピンク色に染まります。そのもやの向こうにかすかに青い富士のなだらかな稜線が姿を現したのです。ああ、やっと会えました。6年前、命を頂いたあの手術のあと。毎日眺め続けたあの富士山。生の富士山。お前を見たくて、私は今まで生き続けたのかもしれない。何時までもそこにいて、皆を見守っていておくれ・・・。
ほんのひと時でした。富士はまた、もやの彼方へ消えていってしまいました。

 月曜日。また目まぐるしい1週間の始まりです。ヒバリさんの後にはトットちゃんが入りました。綾子さん、この日はガーゼが取れてようやく頭を洗うことができました。でも、浴室の鏡の前に立ったとき、胸に突き刺さった10本のホチキスのような針が、我ながら痛々しく哀れでした。そのホチキス針も火曜日には取れ、水曜日にはタンポポさんが退院しました。もっとも彼女は10月7日の手術が決まったので、またすぐに再入院です。そして待ちに待った辻先生の調整。結果は変更無し。
「でも、姿勢が悪いわね。明日レントゲンを撮って、金曜にもう1度診て、それで退院にしましょう。いいわね。」先生、ニカッ。
「はい。有り難うございます。」綾子さんも、ニコッ。

10 ありがとう

 綾子さん、早速大輔さんに電話です。最初に辻先生が「再来週」と仰った時、綾子さん咄嗟に(金曜日だ)と思いました。勿論確証はありませんが、これまでの先生の行動パターンから見て、まず、間違いはないと思われました。ですから、大輔さんには、退院はたぶん金曜か土曜になるだろう、とは伝えてあったのです。
「もしもし。先生、金曜日にもう1度診てから退院、と仰ったのだけれど。金曜の何時かまで聞く訳にいかないでしょ。もし夜になったら、退院は土曜になるかも。」
「俺、もう明日の切符とホテル、取ったから明日行くよ。安いホテルが取れなかったから高い方にしたよ。それで、金曜日すぐに帰る?1晩休んだ方がいいんじゃない? 近くでビジネスホテルでも探しておくよ。いいだろ?」
(まあ、気の早い)とは思ったものの、切符を買ってしまったのに、今さら言っても仕方がありません。その時、看護師さんが知らせに来てくれました。
「先生、金曜の午前中に診ますと言ってらしたわよ。」
 「ご主人、早く会いたくて、待ち兼ねてらしたのよ。」
綾子さんの愚痴に、お隣のトットちゃんが笑います。
「そうね。詰まらない事を言ってご免なさい。」
綾子さんと同い年のトットちゃん、もう10年も前にご主人を亡くされたのでした。でも、今では息子さん、この病院の神経内科の医師になられて、毎日帰りに寄って、細々とお母さんのお世話をなさって行かれます。神経内科ということで、綾子さん、辻先生との連絡をお願いしたこともありました。

 いよいよ、退院の日。月が変わって、もう10月1日です。(退院が昨日なら安く済んだのに。)荷造りを終えて、3階の売店に運びます。本も出してしまって、することがありません。トットちゃんが話し相手になってくれます。
 10時には大輔さんがやって来ました。黙って握手。大輔さん、意外と照れ屋なのです。後をトットちゃんに頼んで、二人でデイルームへ。後はもう、待つのみです。時間だけが過ぎていきます。
「腹減ったなあ。先生、午前中って言ったんだろ?あと1分で12時だよ」。
大輔さんが言った途端に、廊下の向こうから、タ。タ。タ。タ。と走る足音。辻先生です。

 病院でも時々歩いてはいましたが、やはり長い階段は応えます。一晩ホテルで休んで、孫にも会って、大宮から越後湯沢まで1時間。綾子さん、ぐったりして眼を開ける気にもなりません。湯沢で乗り換えるつもりが、震度4の地震で、昼前からほくほく線が不通だとのこと。そんな!大宮で教えてくれれば南回りで帰ったのに!!綾子さんにはこれ以上は無理だと見た大輔さん。すぐに宿を取ってくれました。
 翌朝も何度か余震を感じたところへ、震度4がグラリ。揺れが落ち着くと大輔さん、いきなり立ち上がりました。
「南回りで帰るぞ。」
朝食を急がせて、それからまた東京へ戻ります。この時点では電車は動いているということで、切符代は全て自己負担です。米原経由で合わせて6時間。そのままベッドへ直行です。
翌朝の新聞には、あのあとすぐに震度5の地震があって、特急6本・普通6本が運休、他11本に最大3時間半の遅れが出たとありました。手術を受けてからは、普段はかなり自由に動けるようになりましたが、ひとつトラブルと、途端に全く動けなくなる綾子さんです。時間とお金は使いましたが大輔さんの咄嗟の判断は、正しかったようです。
こんな冒険ができたのも、手術のおかげだと思うと、感謝、感謝の綾子さんでした。

11 投薬とリハビリ

2010年秋、パルス発生器の電池も入れ替え、辻先生の調整も無事済みました。

刺激設定変更情報

2010年9月16日

 

2011年2月19日

2011年9月17日

 

極性

陽極:ケ-ス
陰極:2・3
OFF:0・1

 

変更せず

 

変更せず

抵抗値

454オーム

刺激電圧

2.2 V

レート

160 pps

パルス幅

60 μs

 

 翌春の調整では、隣室で若い医師の予診を受けました。辻先生、若手の養成に乗り出したのでしょうか。それとも、お辞めになる準備なのでしょうか。そこへ先生が入って来られて医師の報告を受けます。
「あなた、一側しかしてないから、これ以上強くすると左右のバランスが悪くなって、かえって危ないわね。あなたの後は両側やっているんだから、あなたもやればよかったわね。」
綾子さん、言語療法士さんの「両側は難しいんですよ」という言葉を思い出します。
「ご免なさい、先生。私、この頃物忘れがひどくって。K市の先生には『加齢ですよ』って言われたんですけど。」
辻先生無理強いはなさいません。
「それでは、あとはお薬で調節することね。それから、リハビリも続けて下さいね。」

 3週間近い入院生活で、綾子さんの身体はすっかりなまってしまったようです。大輔さんが忙しくて、家で食事をしない日が続きます。これ幸いと座って本やパソコンの相手ばかりしていると立てなくなるのです。立ち上がって大きく伸びをして姿勢を正してから歩き出さないと、すぐに転んでしまいます。膝にサポーターを当てていますが、それでも膝は度重なる内出血の痕で真っ黒です。
 動き回っている間は身体に力が入っているようで調子がよいのですが、長時間になると疲れます。晩御飯の支度をすると、疲れて、しばらく横にならないと食事をする元気もありません。
 最近、手術を勧めて下さった、Y市の先生が「7~8年はもつだろう。それまでによい治療法ができるよ」とおっしゃったのが気になります。もう手術から7年が経ってしまったのです。

 K市の先生に相談すると、ペルマックス錠の飲み方を変えて様子を見ようとおっしゃいます。朝250μg・昼250μg・夕100μgだったのを、朝食後と夕食後を入れ替えました。でもこれはあまり効果がなかったので、結局三食後とも250μgになりました。これで夕方の食事の支度が少し楽になったような気がします。
 それから、綾子さん、恥ずかしくて言えなかったのですが、お薬を飲むとお小水がこらえられなくてお漏らしをしてしまうのです。でも、だんだんひどくなるので、思い切って先生に白状しました。
「お薬にそういう成分が入っているのですよ。特に女性の場合は三人に一人がお薬を飲んでいますよ。」
そう、おっしゃって、ベシケア錠5mgを朝1錠、処方してくださいました。ところがこのお薬、よく効いたのは良かったのですが、だんだん両手が腫れてきて、1週間も経つと、指が曲がらないほどポンポンになってしまいました。お薬を止めると、腫れは引きます。それでしばらくは2~3日に一度、間引きをしながら飲むことにしました。
 お薬が変わると診察の間隔が短くなります。病院は合併でK市になったばかりの元郡部。タクシーを使うには遠すぎます。どうしても、大輔さんの動けるときしか行けません。結局、ベシケア錠を諦めて、ウリトス錠0.1mgを朝夕1錠ずつ飲むことになりましたが、効き目はいまひとつのようです。

 

12 電気ロボット綾子号

 「おかしいな?」
サインは少しずつ現れていました。綾子さんも気付いていました。少しずつ、少しずつ、足が重くなって、動きが悪くなっていたのです。大輔さんと歩いていても、息をハアハア弾ませて、小走りにならないと付いて行けません。勿論、大輔さん、慣れたものです。必ず腕を貸して、綾子さんに合わせてゆっくりゆっくり歩いてくれるのですが。
 食事を作るのも辛くて、休む時間の方が長くなってしまいました。綾子さんの台所は、洗い場⇔調理台⇔コンロ台と並んでいます。行ったり来たりのカニさん歩きの足が出ないのです。背中側の冷蔵庫や食器棚のものを出す時はグルリと振り返らなければなりません。そのグルリの一歩が出ないのです。台所で尻餅をつくことが多くなりました。尻餅だけなら、お尻のクッションが厚いので、大事に至ることは少ないのですが。

 (アッ、倒れる!) ある日。盛付けしたお皿を、食べるまで冷蔵庫に入れておこうと振り向いた途端に、バランスが崩れました。欲ですねえ。だって、折角時間をかけて作った大事なお料理ですもの。お皿を落とすまい、こぼすまいとして、まともに冷蔵庫に顔を打ちつけてしまったのです。それが、また、平らなところで受けたつもりが、目算誤って、なんと取っ手の角。しかも、こちらは右眼のすぐ上。眼球を直撃しなかったのは不幸中の幸い。暑いさ中のこと、眼鏡は汗で昆チャンの鼻眼鏡状態。(無事でよかった。感謝!感謝!)あまりの痛みに手で押さえながら、ソッと鏡を覗き込むと、右まぶたの上を細いミミズばれが走っています。
 ここですぐに氷で冷やせばよかったのかもしれません。時間と共にまぶたはどんどん腫れ上がって右目を覆ってしまいました。色も青黒くなって、まるで「おいわさん」そのものです。
「ヒュウ~、ドロドロドロ」。心配する大輔さんにおどけて見せはしたものの、どうなることかと思うと、綾子さんだって心配だったのです。
 10日ほどで腫れも引いて、眼の周りが赤黒い輪になって、パンダちゃんに変身です。

 明らかにサインは出ていたのに、それに気付かなかったのは、綾子さんの失敗でした。確かに電気は効かなくなっています。「7~8年はもつだろう」。そう言ったY市の先生の言葉が思い出されます。
(アア。もうダメなのかなあ)。もう手術をしてから7年以上になる綾子さんです。
 (それとも、何か強い電磁波に当ってパルス発生器の電源が切れちゃったのかしら。)
以前にも何度か切れたことがあります。(とにかく電気の具合を調べてみよう。)
 部屋へ行こうと思うのですが、立ち上がれません。夜です。大輔さんはもう眠っているようです。みるみる身体から力が抜けていきます。震えも出てきました。部屋まで這って行って、コントローラーでチェックしました。(やっぱり。)パルス発生器の電源がOFFになっています。実は綾子さん、以前は、胸に埋め込んであるパルス発生器の電池を少しでも長持ちさせようと、寝る時にはコントローラーでパルス発生器の電源をOFFにしていました。でも、今回の再手術で、あまり意味がないことがわかったので、ずっとONにしておくことにしたのです。それなのに、どうしてOFFになったのでしょう。訳も分からないまま電源をONにして、とりあえず一件落着です。
 K市の小間井先生に伺いました。「滅多にないことなのですが、近くで落雷したり、家の前をトラックが無線をしながら通ったりすれば、あるかもしれませんね。」どちらも心当たりがあります。
「裏のアパートの無線かしら。」裏で無線らしき音がすると、パソコン画面が乱れるのです。
 一時は全く動けなくなって、自分が電気ロボットであることを実感した綾子さんでした。それでも、意気盛んな綾子さん。「まだまだ。これからよ。」どうやら、当分は動けそうですね。感謝!感謝!