パーキンソン病闘病記「朝焼け夕富士」著者 たがみさなえホームページ
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続・朝焼け夕富士

『続 朝焼け夕富士』
 DBS手術4年後の綾子さんの症状報告

 月日のたつのは早いものです。綾子さんがパーキンソン病の定位脳手術を受けてから、もう4年が過ぎました。発病してから17年。綾子さんの後から発病された方が、次々に亡くなられるのを見聞きすると、綾子さんも心が痛みます。

1 震えが止まった

 手術が終わったときの喜びといったらありませんでした。散々思い悩んだ挙句の手術でした。素人の綾子さんには脳の手術というだけで怖くてたまらなかったのです。他の血管や神経を傷つけることはないのかしら。遺書を書き、決死の覚悟で臨んだ手術でした。
「無理ですよ。こんなところ、入れられませんよ。」
手術中、悲鳴のような西田先生の声。
「いいんだよ。そこしかないんだ。そこに入れるんだよ。」
三国先生の冷静な声。局部麻酔ですから先生方の会話は手に取るように聞こえます。緊張で、頭を固定されている痛みも忘れがちです。長い長い時間だけが過ぎていきます。
 と、突然強張っていた体から、す~っと力が抜けました。針が目標の視床下核を捕えたのです。
「曲げて、伸ばして。曲げて、伸ばして。いいわねえ。」
辻先生の嬉しそうな声が弾みます。
 8時間半もの長い間、緊張しっ放しだった綾子さん、術後はさすがにぐったりして、待ち構えていた家族に返事もできません。そのまま眠ってしまいました。

 目が覚めたときは気分も爽快。局部麻酔だけですから、どこにも痛みなどはありません。強張りは手術のときから取れています。
「あ。」
そう、気が付いたら震えていないのです。死ぬまでついて回るものと覚悟していた震えがきれいに消えているのです。これには綾子さん、感動しました。
(そうだ、歩いてみよう。)
ベッドを下りようとした時、そっと手が伸びて、綾子さんの肩を制します。
「気が付いたの。ごめんね、今日は起き上がっちゃだめなのよ。」
看護師さんです。綾子さん、ようやく腕に点滴の針が付いているのに気づきました。

  起き上がれないと聞くと、天邪鬼の綾子さん、急に尿意を催します。
「ええっ。起きれないの。でも、トイレに行きたいわ。」
看護師さん、慣れた手つきでベッドの上に便器を挿入してくれます。ところが、いくら頑張ってもお小水が出てきません。
(なるほど、こういうことだったのか。)
以前、綾子さん、保健所の介護講習を受けたことがあります。その時に、ベッドの上ではお小水が出にくいと聞いていました。羞恥心もあるでしょう。また、勢いがよすぎるとお布団を汚す心配もあるかもしれません。だから、そんな時は新聞紙を一枚お股に挟んであげるといいですよ、と教わったのです。
綾子さん、早速実行してみました。それでも出ません。もう我慢ができないほどなのに、出てくれないのです。
「もう、嫌。いいわ。もう、止める」
癇癪を起こした綾子さん、便器をはずしてもらおうと力を抜いた途端、溢れ出しました。次から次へと、止
め処もなく。止め処もなく。

2 左足のピクンピクンが始まる

 手術後1週間で胸に電池を挿入する手術を行いました。これはたいした手術ではないと聞いていたので、夫の大輔さん1人が付き添いました。この日の手術は研修医の長瀬先生の執刀と聞いています。今度は全身麻酔ですから、綾子さんも手術室に入ったところまでしか覚えていません。
 気づいたら、頭の先から胸までガーゼとテープでガチガチに止めてあって胸から上は身動きもできません。頭骸骨や脳の中は痛くなかったので、綾子さん、うっかりしていたのです。今回は表皮の中に管を差し込んでその中にコードを通してあります。管を差し込むために切った傷に当てたガーゼを留めるために幾重にも貼り付けたテープが突っ張って呼吸が苦しいのです。その上、全身麻酔のために喉がヒリヒリ痛みます。
「いや~。息ができない~。はずして~。」
夢うつつで酸素吸入をはずしてもらったのは覚えていますが、また眠ってしまったようです。

 点滴は最初より長かったように思いますが、ベッドを下りることはできたので、点滴台を転がしながらトイレに通いました。黒のスラックスに黒のTシャツ一枚で、ふらふらと。後ろから見ていた看護師さん。
「綾子さんって、すっごい、セクシーね。」
「え???私? セクシーなんて言われたの、初めてよ。」
トイレの鏡を見て大笑い。点滴の合間に着替えを手伝ってくれた若い看護師さん、Tシャツの前後ろが反対だったのです。背中を大きく開けてふらふら歩いているものだから、そんな風に見えたのでしょう。

 この頃左足に異常を感じました。眠ろうとすると小指がピクンと動くのです。これは今までになかったことです。2~3日でピクンピクンは薬指から中指にまで移り、一晩中続いて眠れなくなりました。
 毎日、傷跡の消毒とガーゼ交換に来て下さる研修医の長瀬先生に相談しましたが、全然お分かりにならないご様子。
 2度目の手術から1週間。お世話になった外科病棟から、元の内科病棟に戻ります。3週間の間に知り合った友人たちに挨拶をして、お礼を言いにナースセンターにも顔を出します。センターに詰めていた長瀬先生にも挨拶しました。
「左足のピクンピクンね。血液検査をしてみたんだけれど、よくわからないんだよ。内科へ行ったら聞いてみて。」
綾子さん、ついマジマジと先生のお顔を見つめてしまいました。
 マイケル・J・フォックスの『ラッキーマン』を読んだのは手術のほんの一月ほど前です。差し入れてくれたのは息子のお嫁さん。綾子さんが手術の具体的な方法を知ったのはこれが初めてでした。手術を受けた本人の体験談はとても有り難いものです。夫の大輔さんに煽られて既に体験談を書き出していた綾子さん。
(負けた。)でもこれは温熱凝固術(『朝焼け夕富士』綾子メモ6参照)です。こちらは最新の電気刺激術。
(よし。まだまだ、いけるぞ。)綾子さんの負けじ魂に火がつきました。
 マイケルの症状は手の指がピクつくものでした。手と足の違いこそあれ、綾子さんのも全く同じです。たまたま出るべくして出たものか、手術が何らかのきっかけになったものか、綾子さんにはわかりませんが。
(この先生、こんなことも知らないんだ。)外科だからでしょうか、若いからでしょうか。驚きでした。
 神経内科病棟に移って、辻先生にご挨拶がてら、足の症状をお話しました。
「リボトリールを1錠出しておきますから、寝る前に飲んで下さい。」
たったの一言で一件落着です。

3 APPLE(明るく生きるパーキンソン病患者のホームページ)
    との出会い

 神経内科病棟は10階です。12号室は以前の検査入院の時、亮ちゃんや幸子さんと一ヶ月を過ごした部屋です。あの時と同じ窓際のベッドが用意されていました。検査入院は9月でした。初秋の鰯雲が朝日を浴びてピンクに染まり、やがて黄金のシンフォニーを奏でる美しさから『朝焼け夕富士』と名づけた手術の体験記も、あとは手術当日の分を挿入するまでになっていました。

 再びこの部屋に戻ってきたのは1月も末。雲ひとつない真っ青な空が続きます。夜明け。暗闇が、上空からわずかに青みを帯びてきます。やがて山々の稜線が黒く浮き上がって、東の方に細いオレンジ色のラインが現れます。オレンジからブルーへのグラデーションの美しさ。下界はまだ闇の中に眠っています。ああ、今日もまた、黄金色の太陽が昇ります。見る見る昇る太陽を見定めると、綾子さん、身を翻して(なんて素敵な響き。この時の綾子さんにはこんな華麗な技もできるようになっていました。)隣の談話室に駆け込みます。西の窓には真っ白に雪を頂いた富士山が、ピンクに染まって聳えています。なんと言う贅沢な景色でしょう。

 その談話室で、数人が集まって10時の消灯まで何やら盛んに話しています。お向かいのベッドの恵美子さんもいるようです。
「どうしたの。」
綾子さん、声を潜めて、戻ってきた恵美子さんに尋ねました。
「鮎子さんって、知ってる? あの人1ヵ月後に手術の予定だったのだけれど、急にキャンセルが入って、今週手術になったんだって。まだ心の準備ができていないって、興奮しているみたい。」

 翌日、綾子さん、出来上がった手術当日分の原稿を持って、鮎子さんを訪ねました。
「急に手術になったのですってね。気持ちの整理が付かなくって大変でしょう。私、1ヶ月前に手術したんですよ。前はあなたよりひどかったのですけれど、今はこの通り。私自身は手術をして良かったと思っています。私を見て少しでも気持ちが落ち着けばと思って。これ、手術のときの様子を書いてみたんですけれど、
参考になるようでしたら読んでみて下さい。」
こうして鮎子さん、『朝焼け夕富士』の読者第1号になったのです。

 その鮎子さん、「パーキンソン病友の会」に入っていて、そこから送られてきた『パーキンソン病患者の自由への扉 脳深部刺激術 体験記集』という冊子を見せてくれました。その冊子を出版したのがAPPLEというホームページの運営仲間の会で、その編集者代表が岡野芳枝さん(患者仲間では有名な方のようですが、他の登場人物との均衡上、あえて仮名を使わせていただきます)。病気になって13年も経つというのに、内に籠ってばかりいて、「友の会」という組織や「APPLE」というホームページの存在を知ったのは、これが初めての綾子さんでした。
 当時、体験記集をほぼ完成させていた綾子さん。
「やられた。先を越された。」
ただただ、焦るばかりです。まさかこの岡野さんに、後々大変お世話になろうとは、この時の綾子さんには思いもよらないことでした。

4 医師と患者の信頼関係を築こう

 お向かいの恵美子さんは『朝焼け夕富士』の読者第2号です。「他の人の目に付かないように」との条件付で許可してもらったワープロを、カーテンの陰でこっそり打つ綾子さんの手元から次から次へと原稿を持ち出して読んでいきます。恵美子さん、退院前の亮ちゃんや幸子さんと同室で暮らしていたので、余計に面白いようです。

 恵美子さんはパーキンソン病ではありません。主治医は信太先生。太って陽気な人気者です。でもなぜか信太先生、回診のときも恵美子さんの目を見ないで声だけかけて行ってしまうのです。綾子さんの怪訝な視線に気づいて、恵美子さん寂しそうに笑います。
「いい先生なのよ。ただ、私とはちょっと合わないだけ。」
 つい2~3ヶ月前まで毎日テニスをしていたという元気元気の恵美子さんです。悲劇は突然起こりました。テニスボールが二つに見えるのです。おかしいと思って眼科へ行ったら、即入院。入院前に慌ててネットで調べました。どうやらお薬を100単位飲まなければならないらしいのです。それも一度に増やせないから様子を見ながら少しずつ増やして、100になったらまた少しずつ減らしていく。ネットには80単位でも良いようにも書いてあります。80で済めば2ヶ月は早く帰れます。恵美子さん、焦っていました。ご主人は単身赴任。家では中学受験を控えた可愛い坊やが、コンビニ弁当を食べながら、お母さんの帰りを待っています。
でも、信太先生は頑として100を譲りません。理由を聞いても素人が納得するようには説明してくれません。
ある時、恵美子さん、最初に病気を見つけてくれた眼科で相談したいと思ったのです。
「複視が辛いので眼科へ行ってきたいのですが。」
「眼科なんか行ってどうするんだ。視力でも測ってくるのかい。」
これには恵美子さんもびっくり。挙句の果てに、先生、看護師さんを遣って心理療法を勧める始末。
「あの先生、私の病気のこと、わかっているのかしら。」
恵美子さんの不安は広がるばかりです。向かいにいる綾子さんには、二人とも対話不足に思われるのですが。

 ある朝、副院長の回診がありました。副院長は恵美子さんの病気が専門です。
「調子はどうですか。」
「複視がひどくて辛いです。」
副院長、すぐに恵美子さんの目の前に指を1本立てます。綾子さんは信太先生がこんなことをするのを見たことがありません。
「はい。この指を見て下さい。」
指を左右に動かします。横から信太先生が口を挟みます。
「80ではどうでしょう。」
「いいんじゃないですか。」
大名行列が通り過ぎて、しばらくすると信太先生が戻ってきました。
「副院長先生は80でも良いとおっしゃいましたが。」
「ああ。80でも何でも好きにすればいいさ。その代わり、後がどうなったってオレは知らないよ。あんたの責任なんだからね。」
「先生。そんなおっしゃり方は、おかしいんじゃないですか。」
思わず横から口を出してしまった綾子さん。慌てて両手で口を押さえましたが、もう、後の祭りです。

5 駅までお散歩

 今から思えば手術の直後が一番調子が良かったのかもしれません。手術の刺激もあって、ほぼ発病以前と変わらない状態にまで回復していました。
「リハビリなんてしなくていいから、駅まで歩いて行ってらっしゃい。」
辻先生に勧められて、2月初めの澄み切った青空の下、暖かい陽光を背に、いざ出発です。
 念のために杖は持っていましたが、転びそうになることもなく、しっかり大地を踏みしめて歩くことができました。駅前でお茶でも飲んで帰るつもりでしたが、本好きの綾子さん、大きな書店を見つけるともうたまりません。何年ぶりでしょうか。お店に飛び込むと思いっきり立ち読みをしました。それから、記念に本を1冊買いました。何とも言えない幸せな気分に浸りながら、一歩一歩病院への道を歩む綾子さんでした。
 それからは、歩くことが仕事です。国分寺跡や国分尼寺跡、更には恵美子さんから借りたガイドブックを手に、多摩の湧き水を訪ねて歩きました。

 そんな綾子さんを訪ねてきた家族がいます。看護師さんから辻先生の伝言を聞いて、「私でお役に立てるなら」と綾子さん、談話室でその家族を出迎えました。綾子さんと同年輩の女性がご主人と娘さんに付き添われてやってきました。手術をしようか、どうしようか迷っているというその女性は、しばらく綾子さんと話しているうちに、綾子さんの回復振りに驚嘆して、やる気満々になって帰っていきました。
 後々のことはいざ知らず、当時の綾子さんは、確かに元気になっていました。

 「私だって、手術をしたときは綾子さんぐらいは歩けたわ。」
そう言うのは入り口のベッドの節子さん。4年ほど前に手術を受けたのだそうです。最初は調子が良かったのだけれど、だんだん効き目がなくなって、挙句に階段を転げ落ちて、胸を打ってパルス発生器を壊してしまったと言うのです。綾子さんよりかなり年上のようです。もう手術をするのは嫌というわけで、二つに折れ曲がった発生器を胸に入れたまま、今回は薬の調整で入院しているとのこと。太った体を細い杖1本に託して、ゆっくりゆっくり歩きます。
 以前は辻先生の担当だったのに今回は若い先生に代わっていると言って、不満顔の節子さん。笑いながら
「先生、私を捨てたのね。」
回診にいらした辻先生を捕まえるとすごい迫力で迫ります。辻先生、相変わらずの人気です。
「勘弁してよ。私一人ではどうにもならないんだもの。」
さすがの辻先生も圧倒されて、部屋の出入りごとに節子さんに声をかけて行かれます。

 「綾子さん、ルンルンね。」
綾子さんの退院の日が決まると、恵美子さん、浮かぬ顔です。実は病院の修繕工事の都合で、退院できる人は一斉に退院することになったのです。急に寂しくなる居残り組には悪いと思いつつも、やはり良くなって退院できる綾子さん、喜びを隠すことはできません。
「恵美子さんには気の毒だけれど。でも、大事なのは中学受験より大学受験よ。大学受験の大切なときに再発しないように、今はしっかりお薬を飲んで確実に治してしまった方がいいわ。」
「私もそう思う。頑張るわ。辻先生が信太先生のバックについて下さることになったのよ。綾子さんのおかげだわ。信太先生に抗議してくれて有り難う。とても嬉しかったわ。」
綾子さん、穴があったら入りたい思いです。それにしても辻先生、お忙しくなるばかりです。

6 『朝焼け夕富士』をホームページに

 鮎子さんや恵美子さんにお別れしてルンルンで退院した綾子さん、先ず、公募ガイドを買ってきて原稿の募集先を探します。最近はしょっちゅうあちこちの出版社でコンクールをやっているので、応募先には困りません。綾子さん、締め切りの迫っているある出版社のコンクールに応募しました。小さな出版社なのでしょう。聞いたこともない名前です。
 ただで手術をしていただいた綾子さんです。その感謝の意を表すために書いた原稿です。世間の人に呼んでもらわなければ意味がありません。読んでもらうためにはどうしたらよいのか、綾子さんにはコンクールに応募する他に方法が思いつかなかったのです。
 3ヶ月ほどで結果が届きました。綾子さんは奨励賞です。1623の応募作品中、最優秀賞が1作品、奨励賞が6作品です。ただ、賞金100万円で企画出版の大賞は該当作品なし。賞金5万円で電子出版の特別賞も該当作品なし。それが引っかかりました。そして、綾子さんには出版社から共同出版のお誘いがありました。つまり、著者が出資して、出版社が印刷製本販売を担当するというものです。綾子さんの場合は奨励賞なので40万円ほど安くなりますが、それでも150万円ほどの出費は必要です。
 もともと多くの人に読んでほしくて書いた原稿です。出版のお誘いは魅力的でした。そのためにお忙しい辻先生にまでお願いして原稿の下読みをしていただいたのですから。でも結局、出版をお断りしてホームページで無料公開することにしました。自分でできない綾子さん、夫の大輔さんの仕事を手伝っている業者さんに頼んでみました。ご自身、身体障害者のこの業者さん、左手1本で惚れ惚れするほど器用にパソコンを
操ります。『朝焼け夕富士』を読んで、お友達価格の2万円で請け負ってくれました。
 その後、その会社から出版したという人から電話がありました。契約不履行の訴訟を起こすために、出版契約をした人に電話をしているというのです。綾子さんが出版しなかったと言うとそれっきりになってしまいました。そして、最近、別の自費出版専門の大手の会社が倒産したというニュースが流れました。契約不履行が原因だったそうです。

 さあ、ホームページはできたものの、これを読んでもらうには宣伝をしなくてはなりません。友人にハガキを出しましたが、10枚や20枚では話にもなりません。そこで各都道府県の「友の会」にもハガキを出しました。でも、「友の会」は年配の方が多いのでしょうか。反応はもうひとつです。そこで思い出したのがAPPLEです。早速電話をしました。
「ここは管理をしているだけだから、0**-***-****に電話して下さい。」
「あらっ。0**って、K市ですね。」
「そう。代表の岡野芳枝さんって言う人、K大学の大学病院の先生ですよ。」

 驚きました。K市は綾子さんの故郷です。すぐに高校の同窓会名簿を繰ってみました。ありました、ありました。綾子さんの1年下です。綾子さん、今度は故郷の友人に電話をしました。彼女のご主人も大学病院の先生です。
「岡野芳枝さん。ええ。よく知っているわよ。お食事会でよくご一緒したわ。それより、あなた、高校の部活も大学のサークルも同じだったじゃない。」
「ええっ。ほんとう?」
 綾子さんユウレイ部員だったので、全く覚えがありません。早速岡野さんに手紙を書いて、APPLEに紹介文を載せてもらいました。それから、電話とお便りだけの交際が始まったのです。

7 手術には患者のやる気が大切です

 入院中のことです。読者第1号の鮎子さんの手術の日。前日、ご主人が会いたいと言っていると聞いた綾子さん、手術の頃合を見て待機室へ行ってみました。廊下に男性が1人、立たずんでいます。挨拶をすると
「よくわからないんですが、手術が中止になったらしいんです。」
落ち着かない表情の男性、やがて呼ばれて中へ入っていってしまいました。
 後でわかったのですが、ドリルで頭骸骨に穴を開ける段階で、鮎子さん、緊張のせいでしょうか、血圧が200を超えてしまい、これ以上手術の続行は危険だとの三国先生の判断で中止になったのだそうです。綾子さんのときは、三国先生のかなり強引な指示で、執刀医の西田先生、無理をして下さったのですが、結果は上々。やはり、よく慣れた医師が側にいて、全体の流れをよく見据えて、その場その場で的確な指示を出して下さる、患者にとってこれほど有り難いことはありません。

 それにしても鮎子さん、手術が急に1ヶ月も早くなって心の準備ができていなかったのでしょう。やはり、「嫌だ。嫌だ。」なんて逃げていないで、本人が「やるぞ!」という気になって治療を受けなければ、うまくいかないんですね。どんなに優秀なスタッフが揃っていても最終的には患者の気の持ちようが大事だということなのでしょうか。

 結局、鮎子さん、5月にもう一度やり直しをしました。読者第1号ということで、せっせと綾子さんに連絡してくれます。手術の結果、声が小さくなった、字が書けなくなったと嘆いています。確かに電話の声は聞き取りにくいし、手紙も判読不明のことがあります。でも、綾子さんの記憶では、手術前の声も決して大きくはなかったように思うのです。
 手術前の文字は見ていないのでわかりません。でも鮎子さんは震えがひどかったから、しばらく文字は書けなかったのではないかと思います。綾子さん自身がそうでしたから。綾子さんは字が小さくなって自分でも読めなくなって、それでワープロを使うようになったのです。手術後は字が走って呆れるほど下手な字になっていますが、それでも以前と比べると判読できるだけましだと思っています。手術で書字能力が落ちたと思っている人もいるようですが、中には病気の進行で書字能力が落ちたことに気がつかないで手術をして、手術のせいだと思い込んでいる人もいるのではないかと、綾子さんには思えるのです。

 鮎子さん、5月は1側だけの手術でした。でも、本人が満足していないこともあり、左右のバランスをとるためにも、9月に残りの1側を手術することになりました。何しろ3度目の手術です。さすがの鮎子さんも悠々としたもの。手術のあと、すぐに綾子さんに手紙をくれました。少し傾いていますが、しっかり書けています。
「手術の方法も前と違って全然痛くありませんでした。モニターを見ていたら面白くて眠るどころではありません。2度目をやるなら今がお勧めです。」
 おかしいですね。仰向けで頭を固定していたら、モニターは見えないはず。看護師さんにお願いして、西田先生に伺っていただきました。
「彼女、難しいですからね。我々だって工夫はしていますよ。最初の麻酔を少し強くしたのですよ。夢うつつでモニターの音を聞いて、見ていると思い込んだのでしょうね。」
納得です。別に文書で丁寧なご説明を頂き、綾子さん、恐縮してしまいました。

8 リスクは高いが両側の手術でよくなる例もある

鮎子さんのように3度も手術をするのは稀なことです。以前は1側でしたが、辻先生のお話では、綾子さんの次からは両側一度にやってしまうようになったそうです。
「あなたも一緒にやればよかったわね。」と、辻先生。
「わぁ、もう、勘弁して下さい。コードが気になって左を下にして寝られないんです。両側やったら、仰向くことしかできなくなってしまいますよ。」
綾子さんの言葉に、辻先生、それ以上は何もおっしゃいません。

 正直なところ、綾子さん、2度目の手術は怖いのです。金属の入っている体ではもうMRIは撮れないのでは?とすると、両側1度にやる方が安全なのかしら?手術前の心理療法士さんの言葉も気になります。
「2度目の手術は難しいから、以前はやりませんでした。今は方法も技術も進歩しましたから、当然のようにやっていますが、難しいことに変わりはないと思います。」
 でも、どんなに難しくても、無事手術さえ乗り切ってしまえば、左右の動きを個々にコントロールできるのですから、結果的には両側の手術をする方がよいのはわかりきったことです。

 綾子さんの検査入院の時、1度目の手術が終わって内科病棟へ戻ってきた幸子さん。背中は二つに折れ曲がり、足もガチンガチンに固まって、ズックを履かせるのも大変です。以前の幸子さんを知らない綾子さんには、とても、良くなったとは思えませんでした。
「でもね、手術のとき、辻先生が背中をぐいってやったら、伸びたのよ。久し振りだからすっごく気持ちが良かったわ。今はまだ3年間で筋肉が変形してしまっているから、すぐには無理だけれど、リハビリ、頑張れば伸びる可能性はあるわよね。」
 でも、リハビリだけでは限界があったのでしょうか。息子さんの結婚式が終わってホッとしたところで、2度目の手術を受けました。
 ところが何と、心理療法士さんの言葉が現実のものになってしまったのです。内出血です。
 以前、綾子さんが辻先生に手術のリスクを伺ったとき、先生はおっしゃいました。
「これまでやった45例中内出血が1例・感染症が1例ありますが、いずれも軽微なもので完治しています。」
 つまり、幸子さん、そのわずかな症例のひとつになってしまったのです。
 もっとも、日本指折りの医師団に囲まれ、しかも脳の手術の最中とあって、すぐに適切な処置が施され、
事なきを得ることができたのです。それでも脳内出血後とあって、ずうっと点滴につながれ、普通なら術後6週間程度で退院できるはずなのに、3ヶ月近くの入院を余儀なくされたのでした。

 その後、外来で一緒になった綾子さん。最初は幸子さんがわかりませんでした。もう車を押したりなんかしていません。杖は持っていますが、足はしっかりと床をつかんで歩いています。筋肉の癖が残っているのでしょう。体はまだかなり前傾していますが、壁につかまって伸ばせばぐんと伸びます。リスクを乗り越えての2度目の手術。感動的でした。
「幸子さんって、背が高かったのね。」
なんてピントのずれた感想。でも、それ以上、綾子さんに何が言えたでしょう。
「外国へ行ってでもいい。脳を割ってでもいい。何としても治したいの。」
そう言っていた幸子さんです。危険に打ち克ったのも、その強い意思があったればこそなのでしょう。

9 術後の調整は辻先生のボランティア

 手術当初、絶好調だった綾子さん。余りに調子が良いので最初2.5Vだった電圧を退院直前に1.5Vに下げました。手術後6週間での退院です。
 綾子さん以上にこの退院を喜んだのは、夫の大輔さんです。毎日のように片道2~3時間の距離を通ってきてくれた大輔さん。仕事のほかは3食食べるだけ(しかも外食)で手が一杯だったからと言う大輔さん。案の定、狭いアパートの中は足の踏み場もありません。そして、洗濯物の山。
「どうだい。男の1人住まいにしては立派なものだろう。」
胸を張る大輔さんを見ては、怒るわけにもいきません。取りあえずは綾子さん、大輔さんの手を取ります。
「有り難う。手術、有り難う。お留守番、有り難う。先生、有り難う。みんな、みんな、有り難う。」
「有り難う。有り難う。」大輔さんも一緒に声を合わせて踊り(?)ます。じっとしていられない気分でした。

 翌日からは掃除と洗濯が待っています。広々とした病院と違って、アパートの中は余りにも狭すぎます。いくら手術をしたといっても、綾子さんにとってはかなり劣悪な環境です。少しでも環境を良くしようとすれば、仕事はきりがありません。電圧を下げて退院した綾子さんには1日3食の支度と片付けだけでも、かなり厳しい時期でした。

 退院の時、辻先生に3ヶ月毎に調整に来るように言われました。辛かった綾子さん、少し早めに電話をしてみました。でも何しろお忙しい先生のこと、なかなか電話では捕まりません。なぜか先生に直接電話をするように言われているのです。ようやく電話が通じました。
「今月はもう一杯ですから来月にして下さい。」
予約した日に行ってもお部屋がわかりません。ウロウロしていると、会議室から先生が手招きしています。状況をお話しすると電圧を2.3Vに上げて下さいました。

 その時のお話では、この病院では手術はするけれど、術後の調整というシステムはないのだそうです。でも、パーキンソン病は進行性の病気です。いくら高価な器具を挿入しても、病気の進行に合わせて調整していかなければ意味がありません。それで、ここでは辻先生が全くのボランティアで調整をして下さっているのだそうです。驚きました。それで、事務を通さず直接先生に電話をする訳がわかりました。
「ボランティアは構わないのですが、私がいなくなったらこの調整の記録はどうなるのだろうと思うと心配なのです。私がいくら言っても上のほうが動いてくれないものですから。患者さんから投書していただけませんか。患者さんの意見なら、放っては置けないでしょうから。」

 すぐに投書して3ヵ月後、病院へ行ってびっくりしました。辻先生の調整がしっかり病院のシステムに組み込まれているのです。つまり、一般の再診と同様に、診察券を再診機に挿入して。窓口を通して、一般の診察室の前で待つのです。勿論、看護師さんも事務員さんも付いています。綾子さんの他に何人投書したのかはわかりません。それにしてもその対応の素早いこと。感心しました。
 普段から辻先生を初め、医師の凄まじい仕事ぶりに畏敬の念を抱いていた大輔さん。調整が、あの忙しい辻先生のボランティアと聞いて、襟を正す思いだったのに、医師ばかりか、都立病院のこの素早い対応。自分の所属する国立大学を顧みて、その歴然たる違いに愕然とするばかりです。

10 調整で乗り切った大仕事の連続

 手術をして1年目は『朝焼け夕富士』に振り回された綾子さんです。合わせて、近くに住む娘の愛ちゃんが、妊娠はしたものの、つわりだ、流産しそうだ、早産しそうだと、ハラハラさせられどおしです。息子の隆君は「給料が安い」と文句を言いながらも、仕事の面白さにすっぽりはまり込んでいます。そんな中で、綾子さんは3ヶ月毎に大輔さんの車で調整に通います。時には渋滞で片道4時間かかったこともありますが、滅多に外出しない綾子さんには楽しいドライブでもありました。

 2年目早々に愛ちゃんが無事男児を出産。夫の清史さんの献身的な働きに助けられて、愛ちゃんも育児に大奮闘。それでも清史さんの仕事が忙しいときは、実家にSOSがかかります。娘のSOSに嬉しい悲鳴の綾子さん。この1~2年の調整はプラス・マイナスの組み合わせを変えたり、電圧を上げたり下げたり。そのつど調子は良かったり悪かったりいろいろですが、調整の大切さは身にしみてわかりました。よく術後がよくないという話を聞きますが、綾子さんは調整がうまくいっていないのではないかと思っていました。

 3年目には定年を控えて、大輔さんも身の処し方を決めねばなりません。子供や孫とも別れたくはありません。綾子さんの病院のこともあります。5年でもう一仕事したいという思いもありました。それで、大輔さん、いくつかの募集に応募してみました。でも、この不況では、年齢制限がなくても65歳からの正規雇用は、先ずありません。年金だけではアパート代で消えてしまいます。
 そんな時、故郷の友人が誘いの声をかけてくれました。今時、寂れた雪国にUターンをする人なんて殆どいません。大輔さんの友人では、定年後に東京に出てきた人は2~3人いますが、田舎へ帰った人は1人もいません。でも、長男の大輔さん、70歳になったら故郷へ帰るつもりでした。(故郷で呼んでくれるならそれもよい。少なくとも母親の光子さんは喜んでくれるだろう。)同じ高校の後輩である綾子さんも、両親がまだ故郷にいるので反対はありません。綾子さんの調整も、パターンが大体決まってきました。最近は調整に行っても変えないこともあります。右だけ電圧を上げても左右のバランスが悪くなるからです。調整が半年に1回になれば、孫に会いに来るにもかえってよいかもしれません。

 4年目の平成19年という年は、大輔さん・綾子さん夫婦にとっては人生の大転機になりました。
 1月には娘の愛ちゃんが2人目の男児を出産。前後の3ヶ月ほどを実家で過ごしました。
 2月には大輔さんが65歳になりました。娘や孫の世話の合間を縫って、国民年金・介護保険の手続きや、例年の確定申告の手続き、退職の手続き、再就職の手続き、引越しの手続きなど、山のような書類に追われて、綾子さんの頭はパニック状態です。大輔さんは大輔さんで、仕事の整理と研究室から溢れんばかりの本の整理に追われて、書類にまで手が回りません。綾子さん、引越しを前にダウン寸前です。それで横浜最後の調整で、2Vの電圧を2.2Vに上げていただきました。
 3月にはいよいよ退職。34年にもわたる横浜生活の締め括りです。大輔さんは毎日のようにパーティーの連続で家の片付けどころではありません。
 引越しは業者に任せるつもりでしたが、何しろ両親と祖父母の荷物が丸々入っている家に、綾子さん一家の荷物を押し込もうというのですから、少しでも身軽にしなければなりません。一つ一つ持って行くか、捨てて行くかを決めるのは綾子さんにしかできません。結局小物の荷造りは綾子さん1人でやる羽目になってしまいました。転んだり、ぶつけたり、落としたりで、体中アザだらけです。でも、それができたのも、きちんと調整を続けてきたおかげだと、綾子さんは思っています。

11 岡野さんと初めての対面

 綾子さんがやってもやっても終わらない荷造りにうんざりしていた時、愛ちゃんから電話が入りました。「お母さん、W市で地震だって。今テレビでやっているよ。」
W市には親戚がたくさんいます。すぐにテレビをつけましたが、発生直後でまだまだ被害状況が入ってきません。電話もあちこちかけてみましたが、県全域が災害伝言ダイヤルになっていて繋がりません。綾子さん、テレビに釘付けで荷造りどころではありません。
 この時、W市に住む人々のほとんどが崩れた家や壊れた家具を目の前にして、恐怖を通り越して、ただ呆然と立ち尽くしていたのですが、そんなことは、綾子さんにはまだ伝わってきません。W市も気になりますが、4月1日からは新しい職場へ行かなければなりません。状況もわからないまま、大輔さんと綾子さん、最後は二人で徹夜で箱詰めして、人生の半分以上を過ごした横浜に、慌しく別れを告げたのでした。

 故郷に戻っても綾子さんの忙しさは変わりません。ゼロのところに100の荷物を入れるのは簡単です。でも、100の荷物が入っている所に、更に100の荷物を押し込むのは大変です。ご近所や近くの親戚には、長の無沙汰を詫び、留守中母の光子さんがお世話になったお礼の挨拶をして回りました。W市にもお見舞いに行きました。でも、友人には連絡をするだけの気持ちのゆとりはまだありません。
 ただ1人連絡したのが岡野芳枝さん。東京か横浜で会おうと言って3年間、結局1度も会えませんでした。これからは半年毎に東京へ調整に行くとして、それとは別に、近くにお薬を出していただく主治医が必要です。それで、岡野さんの主治医を紹介していただいたのです。市の北の郊外にある病院の副院長で、小間田先生とおっしゃいます。綾子さん、早速岡野さんの次の受診日に合わせて予約を入れました。

 当日、綾子さん、予約は12時ですが、岡野さんの10時に合わせて家を出ました。大輔さんが送ってくれます。Door to doorで15分。渋滞の心配も先ずありません。9~10時の予約が取れれば、大輔さんも午後の授業にゆっくり間に合います。これまでのことを思うと夢のようです。横浜から東京の病院までは、渋滞があると3~4時間かかっていました。一日仕事でした。帰りは途中で晩御飯を食べるのが普通だったのです。
 10分ほど早く着いた綾子さん、受付の前で待ちました。時間ギリギリに小走りで駆け込んできた大柄な女性。歩き方といい、手の震えといい、明らかにパーキンソン病です。
「失礼ですが、岡野さんですか。」
「ああ。あなたが綾子さん。」
3年間、手紙と電話のやり取りだけでしたが、なぜか懐かしい戦友に会ったような喜びでした。診察が終わった岡野さん、今日の仕事は1時からだからと言って、12時の綾子さんの診察まで付き合ってくれました。
 主治医の小間田先生も、岡野さんの紹介で『朝焼け夕富士』を読んで下さっています。
「もう20年も前ですけどね、僕、あの病院に研修に行ったんですよ。だから、あの本、懐かしかったですよ。先生方、ちっともお変わりないですねえ。」
温厚で笑顔の優しい先生です。どんな質問にも丁寧に答えて下さいます。

 診察を終えて玄関で大輔さんのお迎えを待っていると、後ろから帰ったはずの岡野さん。
「入院患者さんのお見舞いに行っていたのよ。」
もう時間がありません。大輔さんの車で今の職場の病院までお送りしました。

 

12 岡野さんのアンケート

岡野さんは例の『パーキンソン病患者の自由への扉』の出版の後、アンケート調査を行って『DBS(脳深部刺激術)を受けたパーキンソン病患者へのアンケート~患者側から見た手術に対する満足度~』という冊子にまとめられました。以下、アンケートの質問に従って、綾子さんの現状(   色 )と[アンケートの結果]○綾子さんの感想 を述べてみましょう。

1 パーキンソン病の症状が始まったのは、何歳でそれから何年になりますか。

  症状が出たのは(43)歳、それから(17)年になります。
 [アンケートの平均発症年齢は41.7歳、平均罹病期間は12.9年。]
○最初は意外に若いなと思いました。ただ、手術現場では医師が患者を選びます。老齢で幾つもの病気を抱え込んでいては、危険ですし、手術の効果も現れないからです。そこで、現役世代で、しかも10年を経て薬が効かなくなった患者で、いろいろの検査で問題がないという場合に手術をすることになるので、この年齢・期間は順当なところだと思います。

2 パーキンソン病の薬を飲み始めて何年になりますか。

  (17) 年。

3 手術を受けたのは、いつでしょうか。

  平成(16) 年 ( 1) 月。

4 手術から、どれぐらいたちますか。

  ( 4)年( 0) か月。
○平成12年にDBSに保険が利くようになって、急に手術が増えたそうです。

5 手術を受けようと思ったきっかけは何ですか。

  • 1 主治医(内科・神経内科医)の勧め
  • 2 主治医以外の内科・神経内科医の勧め
  • 3 脳神経外科医の勧め
  • 4 保健婦・看護婦の勧め
  • 5 他の患者さんの勧め
  • 6 テレビ・ラジオで知って
  • 7 新聞・雑誌の記事などで知って
  • 8 その他(                                        )

 [アンケートでは、(主治医の勧め)が42.6%で、半数以上が他のきっかけで手術を受けています。]
○術後は飛躍的に症状が改善します。服薬の必要を感じないほどです。だからといって、急に服薬を止めるのは危険なのだそうです。しかも、進行性の病気ですから必ずまた服薬が必要になります。
 もし主治医に黙って手術を受けると、術後、元の病院に行きにくくて薬が入手できなくなるかもしれません。辻先生は服薬と手術の二人三脚が必要だとおっしゃっています。手術後を考えると神経内科の主治医によく話をして、紹介状を頂いた上で脳外科へ行くのがよいと思います。

6 手術を受けるにあたってその病院を選んだ理由は何でしょうか。

  • 1 主治医(内科・神経内科医)の勧め
  • 2 主治医以外の内科・神経内科医の勧め
  • 3 脳神経外科医の勧め
  • 4 保健婦・看護婦の勧め
  • 5 他の患者さんの勧め
  • 6 テレビ・ラジオで知って
  • 7 新聞・雑誌の記事などで知って
  • 8 その他(                                        )

[アンケートでは(主治医の勧め)が56.5%で、やはり半数近くが他の理由を挙げています。]
○綾子さんの主治医が選んだ理由は、第一に実績が多いことです。神奈川県内にもいくつかDBSをやっている病院はありましたが、せいぜいで10例程度。手術にはどうしても経験が必要です。しかも最新の設備と有能なスタッフが揃っていることです。
 次に主治医が注目したのは、神経内科と神経外科の連携の良さです。
「大体、神経内科と神経外科は仲が悪いんだ。だけどあそこだけは不思議にうまくいっているんだよなあ。辻先生の人柄なのかなあ。綾子さんならきっと辻先生と馬が合うと思うんだ。」
何もかもご存知の主治医のご推薦があればこそ、全てお任せする気にもなれるのです。

7 手術によって症状は変化したでしょうか。手術前、手術3ヵ月後、現在の3つの時期についての症状の程度をそれぞれ次の3段階でお答えください。

  1なし 2我慢できる程度 3生活上困る程度

  手術前 手術3ヵ月後 現在
手足の震え (1 2   2 3) (1  3)
手足の痛み (1 2   2 3) (1  3)
手足のしびれ (1 2   2 3) (1  3)
背中や腰の痛み (1 2   2 3) (1  3)
身体のこわばり (1 2   2 3) (1  3)
動作の遅さ (1 2   2 3) (1  3)
身体が重たい (1 2   2 3) (1  3)
寝返りしにくい (1 2   2 3) (1  3)
不眠 (1 2   2 3) (1  3)
歩きにくい (1 2   2 3) (1  3)
転びやすい (1 2   2 3) (1  3)
足のすくみ (1 2   2 3) (1  3)
薬の効き目が切れる時間がある (1 2   2 3) (1  3)
薬が効かない (1 2   2 3) (1  3)
急に身体が動かなくなる (1 2   2 3) (1  3)
手足が勝手に動いてしまう (1 2   2 3) (1  3)
疲れやすい (1 2   2 3) (1  3)
よだれが出る  2 3) (1  3) (1  3)
しゃべりにくい  2 3)  2 3)  2 3)
うつ(気分がふさぐ) (1  3)  2 3)  2 3)
幻覚・幻聴がある  2 3)  2 3)  2 3)
最も良い状態の時のヤール度 (1245) 3245) (1345)
最も悪い状態の時のヤール度 (1235) (1245) (1235)

* ヤールの重症度
1度;一側の障害で身体の片側だけのふるえ、こわばりがある
2度;両側の障害で、姿勢の変化がかなりはっきりとあり、震え、こわばり、動きにくさなどが両側にあるため、日常生活がやや不便である
3度;明らかな歩行障害が見られ、方向転換の不安定などバランスの障害がある。日常生活動作の障害・突進現象もある
4度;起立や歩行など日常生活動作に一部介助を必要とする
5度;ベッド上もしくは車椅子生活で日常生活全般に介助を必要とする。
 [アンケートでは(言語・書字・睡眠)の領域で手術前より悪化したという人が多い。]
○綾子さん自身は(よだれ)を除く全ての領域で改善していると思っていますので、回答者の調整の仕方に疑問を持ちました。ただ、(よだれ)は東京の病院の待合室でものすごい例を見かけましたので、辻先生の調整でもどうにもならないのだろうと思っています。

8 パーキンソン病治療薬(メネシット、マドパ-、パーロデル、ペルマックス、カバサールなど)の量は手術前に比べてどうでしょうか。

退院時 1 減った 2 変わらない 3 増えた
手術3ヵ月後 1 減った 2 変わらない 3 増えた
現在 1 減った 2 変わらない 3 増えた

 [アンケートでは、58.5%が(減少)。22.0%が(増加)]
○意外に減っていないなという感じです。内科と外科がバラバラで、減らせるものを呑み続けていることはないのでしょうか。

9 手術前に一番困っていた症状は、何でしたか。    歩行困難    )です。

10 現在一番困っている症状は何ですか。  転倒、姿勢保持障害  )です。

 [アンケートでは(不随意運動)や(歩行困難)は減少。(すくみ)は減っていません。]
○(震え)にはかなり効果があるようです。全体に症状が改善されていますので、薬の量は減少しています。(不随意運動)が減ったのは、その結果なのでしょう。(言語障害)など術前より増えているものもありますが、綾子さんには、術前に他の症状が強くて気にならなかったものが、術後他の症状が治まると気になりだすのではないかとも思えるのです。
 綾子さんの場合は転倒は手術前より減っています。でも他がよくなっているので、今は転ばないようにと気をつけています。ただ、病気が進行しているのでしょう、前傾姿勢は以前より悪化しています。

11 全体としての手術の効果についてお聞きします。

  • 1 効果はなかった
  • 2 効果はあったが徐々に薄れた  期間;(        )ぐらいは効いていた
  •   特にどの症状ですか
  • 3 今でもまあ効いている
  • 4 今でもよく効いている
  • 5 よくわからない

[アンケートでは(今でもよく・まあ効いている)は57.8%。(なかった)が11.1%]
○(効果がなかった)と答えた人は両側の手術を受けられたのでしょうか。綾子さんは、検査入院の時に一緒になった幸子さんや読者第1号の鮎子さんのように、1側の手術でよくならなくても両側をやると改善する例を見てきました。また(効果はあったけれども徐々に薄れた)という26.7%の人は調整をどうしているのでしょうか。進行性の病気ですからいずれ効かなくなるでしょうが、6ヶ月や1年で効かなくなるというのは調整不足なのではないでしょうか。

12 手術の後遺症と思われる症状は何かありますか。1 ある     2 ない   

   どのような症状でしょうか。(  よだれが多くなった   )   

   そのような症状が現れたのはいつごろからですか。手術後( 直後   )頃から   

   その症状は現在も続いていますか。1 続いている     2 (      )頃消えた  

[アンケートでは(言語障害)(記憶力の低下)(書字障害)などが多い。]
○これらの症状の中には、後遺症というより病気の進行によるものがあるのではないでしょうか。綾子さん自身(記憶力の低下)は身にしみています。冷蔵庫を開けるたびに何を出すのかわからなくなるのです。でも、小間田先生にさらりと否定されてしまいました。「加齢のせいですよ」って。横歩きやバックなど苦手の動作をするときに、神経を集中するため、記憶の神経回路が中断されるのだそうです。

13 手術についての不安はありませんでしたか。1 あった     2 なかった   

   どのようなことが不安でしたか。(  手術の危険度   )   

[(あった)が52.2%。(手術による合併症・副作用)(手術の効果)などが多い。]
○(なかった)が47.8%もあるのにびっくり。夫の大輔さんの従兄の外科医は「たいした手術ではないよ。ただ、感染症には気をつけろよ。それから、本人にやる気がないとうまくいかないからな」と言っていました。辻先生からも「これまでの45例中、脳内出血と感染症が1例ずつありますが、いずれも大事には到っておりません」とのご説明がありました。それでも綾子さん、手術の前日、息子の隆さんに叱られるまで迷っていたのです。(手術の効果)は、横浜の先生から「7~8年はもつのじゃないかなあ。それまでにもっといい治療法ができるだろうから、それまでのつなぎだと思えばいいよ」と言われていました。

14 手術について十分な説明を受けたと思いますか。1 はい     2 いいえ   

15 手術前の医師の説明と違っていたことはありませんでしたか。1 あった   2 なかった    

   どのようなことが違っていましたか。(              )   

[アンケートでは14(はい)が77.3%。15(なかった)が72.7%。]
○4人に一人ぐらいの割りで不満が残っているようです。綾子さん自身、先生より検査入院の時の患者同士の会話の中でいろんなことを学びました。でも、辻先生だっていつも走っておられます。今、全国的に問題になっているように、医師不足から勤務医の業務は非常に過酷なものになっています。現段階で患者にできる対策としては、聞きたいことをメモしておくことです。これは綾子さんが看護師さんに教わった方法です。

16 手術時に苦痛はありませんでしたか。1 あった     2 なかった    

   それに対する医師のケアは十分だったと思いますか。1 十分だった     2 不十分だった

[アンケートでは59.6%の人が苦痛を感じている。]
○フレーム装着時、綾子さんも強烈に痛みを感じましたが、事前に看護師さんから聞いていたので乗り切ることができたのだと思います。綾子さんは苦痛を伝えませんでしたから、医師がケアしなくて当然です。手術終了後、三国先生が家族に「我慢強いんでびっくりしました」と、おっしゃったとか。

17 手術の結果は期待通りのものでしたか。 1 期待通り   2 期待以上  3 期待以下    

[アンケートでは50%が(期待通り)。(期待以下)が36.4%。]
○4年後の綾子さんも決して好調というわけではありませんが、手術前よりはずっと安定しています。震えがなくなっただけでも幸せです。震えにはエネルギーを使いますから、いくら食べても1年に1kgの割で体重が減っていた綾子さんです。心細い思いをしていましたが、手術後には逆に1ヶ月に1kgの割で増えて慌てました。いずれにしても過剰の期待はしないほうが良いのかも知れません。

18 手術後の管理について何か問題はありませんか。 ( 調整のできる医師が少ない。       )

[アンケートでは(調整が難しい)(病院が遠い)などが挙げられています。]
○[もし辻先生が転院なさっても、私、どこまでも追いかけて行くわ」と言っていた綾子さんですが、自分のほうが先に故郷へ帰ってしまいました。勿論綾子さん、回数を減らしてでも東京へ通うつもりです。でも、症状が悪化して東京へ行けなくなったらどうなるのでしょうか。早く新しい治療法ができるのを祈るばかりです。

19 神経内科と脳外科との連携はうまくいっていると思いますか。1 思う    2 思わない    

[アンケートでは(思う)が59.1%]
○「神経内科と神経外科は余り仲が良くないんだよ。ところがあそこだけは実にうまくいっているんだ。辻先生のお人柄かなあ。」横浜の主治医から内情を聞いていた綾子さんです。(思う)が予想以上に多いと感じました。横浜の主治医は、学会や仲間内の勉強会でこの病院にポイントを絞って2人の患者を送り込みました。その1人が綾子さんです。もう1人は手術にまでは到りませんでした。病院では神経内科と神経外科と神経センターとがチームを組んでカンファレンスを行い、入念に検査結果を検討し、患者の動きを診察して、手術の可否を決めます。手術にはチーム全員が立ち会います。術後2週間を外科病棟で過ごして、内科病棟に移ります。それから4週間かけて、リハビリをしながら薬とパルス発生器の調整をします。もともと進行性の病気ですから調整はとても大切です。辻先生は退院後も定期的に調整を続けて下さっています。

20 総合的にみて手術をして良かったですか。

  • 1 大変満足
  • 2 まずまず満足
  • 3 どちらでもない
  • 4 やや不満足
  • 5 大変不満足

   どういったことが満足・不満足だったでしょうか。よろしければお教えください。  

  (                   )

[アンケートでは(大変・まずまず満足)が72.3%。(やや・大変不満足)が17.1%。]
○綾子さんの見たところ、不満足の理由には手術の結果より病気の進行によるのではないかと思われるものもあります。綾子さんも決して良好というわけではありませんが、手術をしなかったら、今頃車椅子か、寝たきりか、或いはあの世とやらに召されているか。ただただ感謝あるのみです。

21 この手術を他の患者さんに勧めますか。

  • 1 積極的に勧める
  • 2 場合によっては勧める
  • 3 どちらでもない
  • 4 余り勧めない
  • 5 止めるように勧める

   勧める理由、勧めない理由をよろしければお書き下さい。  

  (                       )

[アンケートでは(積極的に・場合によっては勧める)が合わせて72.3%。]
○綾子さん自身はやってよかったと思っていますが、手術前は怖くて前日まで迷っていました。リスクも高い手術ですから、手術は本人がやる気にならなければうまくいきません。綾子さんは、手術を勧めるのではなく、本人が判断するときの参考になるように、自分の手術(後)の体験を報告していきたいと考えています。

22 現在疑問に思うこと、不安に思うこと。

  (綾子さんは最近姿勢の前傾が気になっています。辻先生は「背骨が変形してきたら再手術が必要です」とおっしゃるのですが、腹筋や背筋の運動だけでは効果はないのでしょうか。

◎いつまで続く―○先日のテレビでは、管理さえきちんとしていれば半永久的に続くはずだと言っていましたが、綾子さんは横浜の主治医から7~8年はもつのではないかと言われています。
◎なぜ救急病院で―○地域によって違うのではないでしょうか。綾子さんの病院は神経の専門病院でした。ただ、そこでも調整は医師のボランティアで行われ、データの蓄積がシステム化されたのは綾子さんたちの投書後です。患者がもっと声を上げるべきなのかもしれません。
◎右脳しか受けていない―○1側でうまくいかなくても両側でうまくいった例を綾子さんは見ています。綾子さん自身左右のバランスが悪いので、両側を勧められています。背骨が変形してくるようだと再手術が必要だといわれています。
◎調整が難しい―○確かに調整のたびに良くなったり悪くなったりしますが、綾子さんの場合は、調整を繰り返しているうちにだんだん組み合わせのパターンが決まってきました。
◎凝固術の方が―○一度固めてしまった蛋白質は元には戻りません。一度の刺激で効く期間は長くは期待できません。綾子さんは刺激術でよかったと思っています。
◎進行することは―○進行性の病気ですから当然進行します。だから調整が必要なのです。胸の電池は理論的には10年もつそうです。でも、人によって減り方が違いますし、電池そのものが徐々に減っていくのではなくて、急にガクンと減るので、用心のために5年ぐらいで替えるそうです。両側の人で、3年で替えた人がいるという話も聞きました。綾子さんは、電池の節約のために夜はスイッチを切って寝ているからでしょうか。4年後の今も電池はまだ十分と言われています。夜、切って寝られるのも、調子が良いおかげです。
◎情報が少ない―あなた自身がパイオニアなのですから、情報がなくて当然です。だからこそ、後人のためにもぜひ情報を発信してあげて下さい。岡野さんが『自由への扉』を編集されたのも、ご自分の手術のために資料を探したけれど余りにも情報が少なかったのが、きっかけだったそうです。

23 手術についての意見、感想など

[アンケートでは(手術をして良かった)(しないほうが良かった)などいろいろです。]


アンケートの考察

【1】 症状によって手術の効果に高低がある。有効度の高い症状でも徐々に効果が減弱する。

【2】 パーキンソン病には客観的な要素の強い症状と主観的な要素の強い症状がある。このアンケートは患者の主観的な評価を取り入れた点で、患者の満足度を考える際に有用である。

【3】 患者の満足度については、ここでは大変満足・まずまず満足が計72%。厚生省発表では満足・ほぼ満足が計85%。その違いは、術前の説明不足・説明の食い違い・手術時の苦痛とケア不十分・神経内科と脳外科の連携不良などの要因が医師側に理解されていないためと考えられる。

【4】 患者の満足度については、ここでは大変満足・まずまず満足が計72%。厚生省発表では満足・ほぼ満足が計85%。その違いは、術前の説明不足・説明の食い違い・手術時の苦痛とケア不十分・神経内科と脳外科の連携不良などの要因が医師側に理解されていないためと考えられる。
 また、積極的に勧める・場合によっては勧めるが計72%であることなどからも、いろいろな問題はあるにせよDBSによって症状の改善が見られ、デメリットよりメリットの方が大きいと判断される。また、病院によっても満足度に差があることがわかる。

【5】 神経内科と脳外科の連携がうまくいっていないと答えた人が41%いることなどから、患者サイドとしても、神経内科の主治医によく相談し、脳外科を紹介してもらって、手術について十分な説明を受け、それらを理解した上で手術に臨むことが望ましい。

 以上が岡野さんのアンケートとその結果です。アンケートをお借りして綾子さんの現状を紹介してみました。この4年間調整の必要性を実感してきた綾子さん、次回のアンケートには調整の項目もあるということで、一般向けの報告書ができるのを楽しみにしています。
 故郷へ帰った綾子さん、岡野さんの勧めもあって初めてパーキンソン病友の会の例会を覗いてみました。そこで知り合った方は手術後2年間1度しか調整をしていないとか。一人暮らしのその方は手術をした病院は県外で一人では危なくて行けないし、近くで調整をお願いしている先生はなかなかやって下さらないと言うのです。以前から1~2年で効かなくなったという話はよく聞いていた綾子さん、これまでは「調整不足よ」なんて簡単に言っていたのですが、ここへ来て初めて先生が少ないという実態に気づかされたのです。
 岡野さんの話では、調整は時間がかかる上に難しくて豊富な経験が必要なのに、一般再診分の保険点数にしかならないために、調整をしてくれる医師が少ないのだそうです。、調整をする医師(綾子さんの県では3人)が少ない(やりたがらない?)ために、ほとんどの人が調整をできずにいたのです。ショックでした。辻先生がボランティアで頑張っていらっしゃる意味が初めてわかりました。

今度こそしっかりお礼を言わなくっちゃ。勢い込んで出かけて行った2月の調整の日の診察室。
「先生!どうなさったんですか?」
そこにはいつものオーラを放つ先生の姿はありません。ぐったりとして、それでも気丈にパソコンを打つ辻先生の姿。その右手の甲に突き刺さる太い注射針。それをテープでしっかり留めて、横には大きな点滴台。
「ごめんなさいね。みっともない格好で。」
「とんでもない。私、今日はお礼を言いたくて来たのです。私、ボランティアって知りながら、これまで当たり前みたいに先生に甘えてしまって。故郷ではせっかく手術をしても調整をして下さる先生が少ないので、皆さん調整をしていないみたいなんです。保険に調整用の特別枠がないという話も聞きました。」
「調整をしなければ手術をした意味がないのですよ。うちで手術をしたのですから最後まで責任を持つのは当たり前です。」
点滴を打ちながらの気力の診察。大輔さんと綾子さん、顔を見合わせて、ただただ感服するばかりでした。

 

(参考)綾子さんの調整(刺激設定変更)情報

 

’04.01.15

’04.02.17

’04.06.12

’04.12.18

’05.04.09

’05.06.25

抵抗値(Ω)

  1553Ω

 

  1421Ω

  1277Ω

   671Ω

   627Ω

 

極性

+極

2

ケース

ケース

ケース

ケース

ケース

-極

1

2

2

2

1・2

2・3

OFF

0・3・ケース

0・1・3

0・1・3

0・1・3

0・3

0・1

刺激電圧

2.5V

   1.5V

   2.3V

   2.6V

   1.6V

   2.6V

 

’06.03.18

’06.10.21

’07.02.17

’07.09.15

’08.02.16

 

抵抗値(Ω)

 

  変
  更
  せ
  ず

 

   549Ω

 

  変
  更
  せ
  ず

 

  変
  更
  せ
  ず

 

 

極性

+極

ケース

ケース

 

-極

2・3

2・3

 

OFF

0・1

0・1

 

刺激電圧

   2.0V

   2.2V